2017年3月19日の断片日記

▼自分の中に湧き上がっている感情を理解するためには、感情の容器に(感情そのものを掬いあげるための)理解のスプーンを差し込むスペースが必要だ。今はそれすらもないほどに、容器の中がギチギチに詰まってしまっている。次から次へと色々なことが起こって、事実を処理するのに気持ちが追い付いていない感じだ。それでも毎日が早いと感じることもなく、本当に不思議だ。
 
 
▼ところで、眼前で起きていて皆から可視の状態にあるものを指して事実というならば、僕の心の中で起きていることは事実とは言えないのだろうか。そんなことはない。僕の心の中にそれは「ある」のだから、事実といってよいだろう。それでもそれぞれがそれぞれの「わたしのせかい」で生きているのだから、僕の心の動きが言葉や行動・態度として表出されなければ、だれかの「わたしのせかい」にとっては「ない」ことになってしまう。あるのにないという状況は、社会生活を送っていく上では避けがたいことではあるのだが、そこに対する気持ち悪さのようなものがある。だからせめてこの気持ちを言語化しておきたい(そうでないとそれが自分の中にあるのかどうかさえも疑わしくなってしまうような恐怖感がある)
 
 

2017年3月11日の断片日記

▼いまだに態度を決めかねている都市(それはそれで意味も救いもあることだとは思う)を横目に、もはや「忘れない」とかそういうレベルの問題ではなく「忘れるわけないだろ」に到達してしまっている多くの人々にとっては、この日付自体に役割はないだろう。それはずっとそこにあるものなのだから。忘れてはならない者は覚えておけばいいだろうし、忘れたい者には忘れる自由(実際には忘れようとする自由、だろうか)が保証されていることが重要だろうと思う。
 
 
▼象徴と体現について辞書を引いた。意味としては重なる部分も多く、明確な違いを理解するまでには至らなかったけれど、象徴が体現を内包するようなイメージを抱いた。手持ちの辞書では象徴について大きくページが割かれ、象徴と比喩、象徴と記号がそれぞれ比較されていて、楽しく読んだ。象徴は形のない精神的なものを具体的なものに置き換え、比喩は具体的なものを具体的なものでたとえる。また象徴は対象同士の関係が1対多元的イメージであるのに対し、比喩は1対1である。加えて象徴に類似性は必ずしも必要がなく、また象徴であることが学習によって理解されるケースもあるが、比喩は類似性によって表されるものであり、学習ではなく感覚による理解が可能なのだそうだ。ちなみに、記号は象徴と異なり、意味するものの特徴を表さないようだった。
 
 
▼日本の生活文化における象徴の重要性みたいなものも記述されていて、それというのはこの国特有のものでないことは明らかだけど、確かにまあそういう傾向はあるのだろうなと。とはいえ文化も学習によって身につけるものだから、象徴に対する獲得された感覚(趣とかそういうもの)は、従来のものとは変わってきているのだと思う。それを「弱まった」と表現するかどうかはまた別の話だ。