重ねられた生活 20171014~1020

1014(Sat)

たいへんな1日だった。  
 
 

1015(Sun)

昨日よりもたいへんな1日だった。なんで休憩ないんだろう?
 
終電で部屋にもどって『オレンジ・イズ・ニュー・ブラック』S5の最後のエピソードを見終えた。「威厳を保つんだ」に震える。やっぱり僕には尊厳だとかそういうものが琴線に触れるのだと思う。
 
 

1016(Mon)

フィンチャーが絡んでいるというので、配信されたばかりの『マインドハンター』を見始めた。予告編からして最高だったのだけれども、期待通りの滑り出しである。
 

マインドハンター新予告編 - Netflix [HD]
 
当然まだ1話目であるのだけれども、同じフィンチャーのNerflixドラマである『ハウス・オブ・カード』よりも何となく映画ぽいカットが多いかなと思った。それから会話が主体でありながら引きの画が多くて不思議だった。それでいて地名を表すときは文字が画面いっぱいに出てくるので、物語全体の空気感を表す手法としてこんなのもあるのかと思った。あと、音が良かった。音楽はもとより、音が。
 
 

1017(Tue)

帰り道にがさごそとカバンの中からお菓子を取り出しておみやげです!などと言うものだから、当然のやうにどこかへ行っていたの?という話になるわけで。僕は新幹線が好きだけど、そうか…飛行機が好きなんだね。なんやかんやと話すうちに話すつもりじゃなかったことまで話してしまったようで、こんなはずでは…というその顔。忘れてしまうには惜しい気がした。
 
好きな人が話してくれた隠しておくはずだった話の内容には僕だって軽い偏見がないわけではないけれど、好きを語る顔が本当に幸せそうだったから、大事なことはそういうことじゃん、とか思う。永遠はないのだから、今はその好きにまっすぐであればいいと思う。そして僕は属性やその人の好きなものではなくて、それも含めたその人を好きなのだし。などと。
 
 

1018(Wed)

僕の好きな人はふふふとかへへへとかふにゃふにゃと笑う。酔っ払いかな?そしてやっぱりあっさりとマジカルな瞬間に自分をゆだねる。確実にこの人は、何かから自由だと感じる。僕が囚われている何かから。とても、とても好ましい。
 
いろいろと「会話」をしながら、普通のことというのはこんなにも軽やかなのかという驚嘆の念。何回か普通の逢瀬を重ねたら、きっと普通に想いを告げることになるのだろう。だがたとえそれが成就しなかったとして、僕が悲嘆に暮れることはないように思える。その自由と無限を肯定できたことだけで、僕には十分すぎるくらいだ。
 
 

1019(Thu)

約束の日をめがけて台風が突進してきているのでやむなく予定を延期することを決意する。
  
終電にとびのって揺られながら、雨が降って傘を持つと電車の中で本を読むのがおっくうになってしまうので良くないなと思う。ぼんやりと車窓についた雨粒の行方を眺める。雨なんて、ホント、大嫌いだ。
 
 

1020(Fri)

Netflixで「アメリカン・ヴァンダル」を見始めた。パロディものとして秀逸な香りがする。吹き替え版でもちゃんともともとの音声が残ってるのがそれっぽくてよい。まじめな顔で見るべきという視点がありつつもバカバカしさの空気も通底していて不思議な気持ちになる。きっと良い作品だということなのだろう。
 
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読みかけて放置していたユリイカcero特集の号を読み進める。

  
吉田氏が「折衷的な、余りに折衷的な」で指摘している以下の内容にある種の感動を覚えた。場面は『Obscure Ride』のオープナー「C.E.R.O」についてだ。

冒頭のラインにおいては「夜な夜な」「有象無象」「ダンナ、オンナ」の四音節のフレーズの一つ目と三つ目の音にアクセントが置かれる。日本語の音節は「モーラ」(拍)と呼ばれる単位からなり、基本的には発音の長さの長短やアクセントの強弱がなく、仮名一文字ずつが一拍となる。ゆえに「ウゾウムゾウ」や「ダンナ、オンナ」はそれぞれ三文字だから三つの拍からなるが、ここでは末尾の「ウ」や間の「ン」は一音節に回収されている。「U-ZO」や「DAN-NA」のようにローマ字で表記すると分かり易いが、それぞれ二音節の一音節目が強く発音されているのだ。つまりこのラインは英語のアクセントを援用し翻訳されているといえる(中略)
さらにライン最後の「レディーボーイ」「ローラーガール」は英語として発音されている。つまり結果として、この一行目は、初めて聞いて意味を理解するのが困難なラインとなっている。フロウのアクセントを重視した結果だ。
 
一方の三行目、「飲み干されたショットグラスが次から次へと床に叩き付けられていく」のラインでは「ショットグラス」が英単語のアクセントで発音される以外は、一文字ずつ一音が与えられ(モーラ単位で)歌われている。結果、初めて聞いても意味をとれるものとなっている。
日本語ラップが対峙してきた、このアクセントと意味のトレードオフの関係性が、この二行に凝縮されているといっても過言ではないだろう。(中略)オリジナルを模した日英折衷的なレプリカと、日本語の特性に寄り添った、いわば異なる素材で組み上げられたレプリカ。

 
「Contemporary Exotica Rock Orchestra」から「Contemporary Eclectic Replica Orchestra」へ、ということを語るとき、僕はその音の話ばかりしていた。歌詞にもそれがあるのだ。コードがないというのは恐ろしいことであると同時に、知らないことを知る、気づいていなかったことに気づかせてもらえるというのはなんて楽しいことなのだろうと思う。
 
先週はここまで。
 

重ねられた生活 20171007~1013

1007(Sat)

昼頃まで雨。冷えるかなと思って厚着をしていったが、ほとんど気温は下がらずじまい。湿度が不快な空気を起き土産にしていった格好だ。

そのコの心配事の話を聞きながら、何事もそうだけど自分の経験からのアドバイスはいかんなあと考える。経験に基づいたとき、往々にしてそれは事実からは離れてしまっている場合があるし、社会的な状況・環境、性別も異なればそもそもの人間が違う。一般化はできない。特に僕のは。そして喉元過ぎたものは大体の場合、過小評価か過大評価のどちらかでしょう?だから、そのときの「気持ち」を懸命に思い出す。スタート地点をそこにして、そこから語れることだけを語るようにする。
 
「えーあおいさん信じますからねー。失敗したら恨みますよー」 
 
うーん…なんかその僕の試みは果たしてどうだったんだろう。。
 
 

1008(Sun)

休み。のんびり起きて適当に支度をして髪を切りにいく。なんだかぼうっとした頭を引きずって、所用を済ませに恵比寿へ。早めに終わったので周辺をウロウロ、その後、中目黒やら代官山やらをうろつきながら、なんかえらく久しぶりに来たなという感じ。1年前までは祐天寺とかあの辺にばっかいたよな…。相変わらず住むとなると別なのかもしれないけど、遊ぶというか、ぶらぶらと歩くだけなら飽きなくていい。すっかり暗くなるまで周辺をあちこち。歩いたことのない道へ適当に入ったり、そのせいで虫に刺されたりした。いろんなことを検討して、今度の店を予約した。
 
その足で新宿へ移動して買い物。バックパックを入手する。3万円くらいかなと思ってよく確認せず会計したら5万円ぐらいした。学費の件があるから出費は抑えないとなあと思いながら何着かの衣類と靴まで買ってしまった。思いとは。閉店までの70分程度で、いったい僕の労働時間いくら分の対価が商品と交換されたのだろうか。
 
 

1009(Mon)

長くなったので単独で。
 
etlivsfragment.hatenablog.com
 
 

1010(Tue)

『告白』はⅢ巻の時間論まで進んでいる。まっこと、おもしろい。読みながら、僕の言っている「瞬間」(そしてそれは永遠である)というのは、果たして時間なのだろうかということを考える。正確には時間軸の中でとらえていいものなのだろうかと。瞬間のことを考えるときに、入口では分かりやすくするために流れ行く時間というものと対比させ<ただ、ある>存在として考えているけれど、もっと手前のところに実は問わなければいけないことがあるのではないか。
 

 ところでいま私にとって明々白々となったことは、次のことです。すなわち、未来もなく過去もない。厳密な意味では、過去、現在、未来という三つの時があるともいえない。おそらく、厳密にはこういうべきであろう。
「三つの時がある。過去についての現在、現在についての現在、未来についての現在」
 じっさい、この三つは何か魂のうちにあるものです。魂以外のどこにも見いだすことができません。過去についての現在とは「記憶」であり、現在についての「現在」とは「直観」であり、未来についての現在とは「期待」です。もしこういうことが許されるならば、たしかに私は三つの時を見ますし、それどころか、「三つの時がある」ということをも承認いたします。
 
アウグスティヌス 山田晶(訳)『告白Ⅲ』 中公文庫p.52

ここでいう「直観」とは語源であるcontuitusと注釈に従うなら「文字どおり、直接に、目前のものを、まのあたり見つめること」である。瞬間は時間で言えば確かに「現在」であり「直観」であるが…何かがひっかかる。でも時間であるからこそたどり着けないのだという解釈も可能ではあり…。 
 

 
 

1011(Wed)

僕がここに記していることは全部嘘だ。嘘というか、事実ではない。世の中にはフィクションとノンフィクションしかない?そんなばかな。フィクションとノンフィクションの間があって、その部分を書きたいし、書いている。そのはずだ。虚実ないまぜといったことではない。本当に、フィクションとノンフィクションの間の空間が<ある>のだ。特別な名前がないだけで。僕が生きているのも生活と人生の中間だ。というか意識してそこを歩こうとしている。そうでないとあっという間にどちらかに引き込まれてしまう。そんなの、つまらないから。
 
企てて時間を共有しながら、少しずつ自然さを手にしていく。そのこと自体が不自然とはいえ、自然な関係なんて全部不自然だろとか考える。相手と話しているときに自分と話していることがある。君と話していた頃、そのことをよく感じた。だからそれは君への愛に殉じているときに起こることなのかと思っていたけれど、最近はいつだってそうなのかもしれないと思い始めている。役割に袖を通せば、役割との対話が起こるだろう?だから…自然か不自然かだなんて、それらを感じられるかどうかの違いでしかなく。つまり、夢との近似。毎晩夢は見ているけれど、覚えていないってやつだよ。たぶん。
 
この先の天気予報を見て絶望的な気持ちになる。僕は土曜日の夜のような気分で毎日過ごしたい。
 
  

1012(Thu)

地下鉄の構内をずいぶんと歩かされる。乗り換えに失敗しているのか、それともこれがこの駅の構造なのか。終えた会議の内容をぼんやりと反芻しながら、予感のことを考える。電車が近づいてホームに風が吹き荒れる。今度の約束についての連絡を取り合う。顔を上げると車窓を挟んで景色が流れていく。では日々が流れていく様というのは、いったいどうやってとらえたらよいのだろう。
 
仕事を終え部屋に戻ると学生証やテキストの到着を告げる不在通知が入っていた。しばらく連勤が続くから受け取るのも目を通せるのももっと先になりそうだ。
 
 

1013(Fri)

終わったら、終わりなのだろうかということが頭をもたげる。何について、というわけではないのだけれども。先週はここまで。