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2012年9月6日の日記

私だけの信仰をようやく持ち、自らの行いのなんたるかを探らんとしている時である。絶対的な存在及びそのものとの関係性の変容の前に、私は罪を告白することもあるいは全てを放棄することもなく、ただただ絶望するばかりである。

そう、この選択をしないという態度は私の神から祝福されるものでもなければ私の信仰の対象との間に何をも引き起こさないのである。現実には「見ればそうなる」のだから、何をも引き起こさないというのは正確な表現ではないが、私が私の世界を生きるにあたり、選択をしないというのは可能性の問題として存在し得ないのである。私はこの矛盾を克服すべき課題だとはとらえておらず、いずれ忘れてしまう類のものであると感じているが、あるいはその相反のもとに私が立脚しているということが不安の源泉の一つの可能性であるということにも言及しておく必要があるのかもしれない。

私の人生は既にほかの誰かによって語られている。この事実に私は大きな歓びを感じるが、同時に私はそのことによって、この私から発せられる言葉と私の内部とそして私の世界との間に埋めがたき乖離を覚えるのである。ではその接点を何に見出すかというと、やはり私がたどり着いた信仰なのである。