2013年2月11日の日記

あなたには何でも喋ってしまうわと笑う彼女を前に、僕もまたそうであることを告げながらずっと別のことを考えていた。目の前にいる人間を突き抜けて他へとアクセスしようとしていることに気づいた時の不快感にはいつまでたっても慣れることはない。そしてその後はやはり自己嫌悪に苛まれる。自ら手を離しておきながら何だが、その衝撃と動揺はしばらくおさまらないのだろう。とはいえ、我々の身体が時にミームの運び屋であり遺伝子の乗り物である以上、言葉もまた僕から彼女を通じて君へと注がれていくこともこの世界の意志にとっては何の造作もないことでありかつ違和も生じえないことのはずなのである。

 

欠損の日々に紡がれる言葉が、途方もない哀しみを携えているのは当然として、報われた感慨に包まれてなお、どうしてこんなにも意味のない堂々めぐりなことばかり書き、甘美な欠損の誘惑に屈してしまうのだろう。そのこと自体に何か忌避する思いがあるわけではないのだが、疑問には思う。忙しさをその原因の一つに数え上げたときに、僕は哀しみの渦に自身がずっと以前より飲み込まれてしまっている可能性を思った。僕にはこれ以上何かが入り込んでくる余地がほとんど残されていないのではないのだろうか。だがもしそうならば、良いフィーリングを演じる日の正体は一体何なのかということになる。明日もこうして気分で生きるかと思うと、何だか途方に暮れてしまう。大丈夫なことなんてなんにもないのだ。いつだって、そうだ。