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2013年1月21日の日記

妙な焦りを覚えるのは、死を意識しているからかもしれない。かつてその死を事実としてのみとらえていた時期というのは、やはり明日があることをどこかで信じていたのだろう。「また今度でいいや」の刹那に襲ってくる恐怖は、死を実感し、死を見据えたものにしか感じ得ないことである。その点において、「また明日」の言霊に対する思いはあの時とはすっかり変わってしまった。だが素晴らしい言葉であること自体は少しも損なわれることはない。全てはこちら側の問題だ。見れば、そうなる。


明日を、あるいはそれは昨日でも構わないのだが、確信している人間たちと生活を営んでいくのは実のところそれそのものが既に大変なストレスである。既に、というかもしかすると全ての出所はそこなのかもしれない。でもそれも何らかの事実から目をそむけようと僕が作り出した虚構なのかもしれない。やりたいことがまだまだたくさんあったのにと思うとき、どうして僕はそれらが果たされないと強く信じているのだろう。美しさというエクスキューズを持ち出して、いったい何に蓋をしているのだろう。いいや、そんなはずはない。美しいと感じる「いま、ここ」だけは真実だ。でも果たして本当にそうか?老いと死の香りに怯えることで揺らぐのであれば、僕は一体今まで何を見て何を語ってきたのだということになる。そのことが恐怖の正体なのか。いずれにせよ何らかのものに僕はずっと怯えていて、そのせいでずっと泣いているから、神様の使いを求めるのかもしれない。仮にそうだとしたらたぶん僕は救いだされることのない絶望にとりつかれていることになる。それだけはあまり考えたくないものである。