2014年1月16日の日記

先日夜中に部屋に戻ると、月に囚われた男を放映していたので酒を飲みながらぼんやりと見ていた。


映画『月に囚われた男』予告編 - YouTube

僕は僕の人生を収奪されたとも、何かを搾取されているとも別に思っていない。薄給激務の類ではあろうかと思っているが、割と人に恵まれていて防波堤になってくれる人もいるし僕は僕で詭弁に詭弁を重ねて哲学に反する(などと気取ってみるが、その実やりたいか否かというだけという側面がなくはない)ことからは極力距離をとってのうのうとやりおおせている。とはいえ、1日の―それは一週間の、一か月の、と同義であるが―ほとんどを仕事に費やしている今、はたして僕はいったい誰の人生を生きているのだろうと思うことはある。


だが、いったい誰が自分の人生を生きているのだろうという思いもまたどこかにある。それは自分の範囲をどこまでと設定するのかによってだいぶ受け取り具合は変わってくるのだろう。だが、僕は僕の人生を生きることに興味や執着があるかといえばそうではなく、あくまで誇りと尊厳の問題であると考える。わたしのせかいの正体を暴くこと、瞬間にたどりつくことがプライオリティの頂点に鎮座していることを思えば、誰が誰の人生を生きていようと、僕が僕の人生を放棄していようと、大した問題ではない気がする。

 
それは昨年ホーリー・モーターズを劇場で観たときに抱いた思いと酷似しているかもしれない。

曰く嘘をついたら罰を受けねばならぬ。お前がお前として人生を生きるという罰を、と。結論的には相手も演じているに過ぎず、そもそもわたしがわたしとして生きるためにはわたしを演じるしかないのだけれども、そのことの意味がかなり変容しているのだなと思った。僕は僕を演じて生きていることを是とし美としてとらえてきたから、すごくくるものがあったシーンだった。
 
 
そうして演じることの意味も変容し、かつて重たかったカメラは今や目に見えないほど小さくなり、もはや人間は行為を求めなくなり…。なんのためにこの仕事を続けるのかと問われたオスカーは、行為の美しさだけがその理由だと答えた。全くその通りだと思った。

時が経とうとも同じようなことを考えているのだとわかる時、それは回収あるいは受け取り直し・反復の時とも形容できるが、いずれにしてもそうした時にのみ、僕は僕の自我を認識する。それを地獄ととらえるか安堵を覚えるかはその時々の「気分」によるが、知覚・認識し、分かれば付き合うことは可能だ。僕が僕自身の人生を生きるというのは、分かり、コントロールすることなのかもしれない。だとすれば理由を求める諸々の行為もまた、自身の人生を生きようということであり、となると冒頭で考えていたことはポーズであるのかもしれない。ただ、仮にそれが真実であったとしても、僕の人生が誰かに奪われているわけではあるまい。金は、金銭という尺度に照らし合わせたとき、きわめて正当な評価を僕に下していると思う。その事実は、紛れもなくどうでもよいことの一つだ。金を持っていても得られぬものはあるし、死ぬときは死ぬ。行為の美しさと貴賎の間には、相容れぬものがあると今もなお考えている。そしてそれは冬が寒いのとまったく同じことだとも。