2014年6月2日の断片日記

▼死の場に赴いたからかもしれないが、身の回りの亡くなってしまった人のことを考えることが多い。十数年前に亡くなったお向かいに住んでいた気のいいおじさんは、僕が野球をしている姿に目を細めてくれた。お酒の好きな人で、最期は確かそのお酒のせいだった記憶がある。
 
 
▼遺影を見ながら、僕もいつか死ぬわけだけど、死んだことも、死ぬときのことも、本人には分からないのだよなあなどと考えていた。死ぬということは、いつだって周りの人間にしか分からない。せめて死ぬまでに、生きているということだけは理解したいものだ。そうでなければ、死することによってのみ、つまり周囲から「死んだ=今まで生きていた」と認識されることでしか生が立ちあがってこないことになる。道化として「生きる」ことと道化であることは似て非なるものだ。旗を他人に預けてしまっては、僕の神がぼくである理由も、私の世界がある意味も、それによって不安に苛まれる必要性もすべて無いのと同じになってしまう。
 
 
▼街も死ぬし、家も死ぬ。
  
 
▼僕のすでに流されてしまった家での思い出を絞りだそうとすると、必ず最初に小学生のころ夏に勉強していた窓辺と、冬に音楽と参考書に囲まれながら受験勉強をしていた深夜の風景とが思い起こされる。そこに人はいない。いるとすれば僕で、いややはり正確には僕もいなくて、僕が見た世界がそこにはあるだけだ。他のことは、楽しいことも辛いこともどんどん記憶が薄くなっているのを感じる。10数年ぶりに会った親類の顔なんてほとんど分からなくなっていたし、いつの間にか家族の顔だって分からなくなるだろう。でも、特別な何かが起きたわけではないあの夏と冬の風景だけは忘れない気がしている。
 
 
▼何も起きない、どの1日も特別じゃない。このことは僕にとってとても大切なことなんだろうと改めて思う。