2014年8月15日の断片日記

▼執着から解き放たれなければならない。それを可能にするための最も確実な方法は、執着している対象を視界から消してしまうことだ。対象は、僕を掴んではいない。僕が、それを抱こうともがいているだけなのだから。
 
 
▼見知らぬ人の生き方に触れる。彼らを素晴らしいなと思うのは、彼らには語るべき日々があり物語があるということだ。僕には僕自身の僕自身についてのなぜはあるが、その歩みに語るべき日々や物語があるとは到底思えない。起伏を良しとしなかったせいかもしれないし、そもそもそういう人が大多数であるのかもしれない。何とも言えない思いはあるが、それでもやはり何も起こらない、どれも特別な1日などではないというのはとても大事なことのように思える。それは僕が臆病だから?でもだとしたらいったい何を怖がっているのだろう。持たざる者は失うものもない…失うことばかりが恐怖の対象とは言えないだろう。いま一番何が怖いか。分からないということが怖いかもしれない。それは単に無知であるとかそういうことではなくて、僕自身がわたしのせかいを理解できないとか、自分が選択した行動の理由とか認識・解釈の背景とかそういうものにこじつけでも何でもいいから理由がつけられない、ということを恐れている。「よく分からないけど…」というのがないわけではないし、以前はそういうのも悪いものではないと思っていたけど、今は「いや分かれよ。考えろよ」とぼくが言っている気がする。
 
 

愛するということ

愛するということ

孤立感を克服するもっとも一般的な方法は、集団に同調することである。集団に同調することによって、個人の自我はほとんど消え、集団の一員になりきることが目的となる。(中略)民主主義においては、集団に同調しないことも可能であり、実際、同調しない人がまったくいないわけではない。一方全体主義体制にあっては、服従を拒むのはごく少数の特別な英雄とか殉教者だけだろう。しかし、こうしたちがいにもかかわらず、民主主義社会においても、ほとんどすべての人が集団に同調している。
 なぜかというと、いかにして合一感を得るかという問いには、どうしてもなんらかの答えが必要なのであり、ほかに良い方法がないとなると、集団への同調による合一がいちばん良いということになるのだ。(p.30-31)

僕はわたしのせかいから切り離されたらいよいよおしまいだ。ゆえに孤立感に対する忌避の念、克服しなければという思いは僕にもあるだろう。だが、集団に同調することで得られる合一感ではわたしのせかいの本質からは離れてしまう。そうなってしまっては、わたしのせかいの構成員に埋没することによってわたしのせかいが消滅するというそれこそ「切り離される」と趣は違えど結果としては同じ所へ着地してしまうことになる。理由を追い求め、僕のなぜに一定の答えを与え続ける行為は、わたしのせかいから振り落とされぬように、自分がしっかりと神であり続けるために、孤立から逃れようとしているその表れと理解することができる。仮にそうであるならば、神の座を降りてなお、わたしのせかいが続く条件があるということだろうか。それも神様の仕業であって、瞬間へ到達したときに氷解する類の疑問なのかもしれないが…。


▼自分が存在する限りわたしのせかいも存在し続けるわけだが、自分が存在していながらもわたしのせかいを見つめていないとき、誰がそのせかいを維持し継続させているのか。あるいは、そういう状態のときはそもそも私は存在していない?ゆえにせかいも消滅している?だがフィジカルコントロールが届く範囲が確認される限りにおいてはそれは真ではないように思える。そうなると「見る」ということ以外にせかいを支える装置があるということになる。その正体を探るのとは別に、せかいが絶えず流転して形を変え続けている以上(構成員や経験が変わる以上、源泉はどうあれせかいが同じということはないだろう。それは日々自分が死に、生きていることと同じだ)、消滅したり新たに生成されている可能性を念頭に置いておく必要はあるのかもしれない。今まで「見る」ということがわたしのせかいの始まりであり、源泉であり、神としての仕事だと思っていたがここにきてそれすらもう一度整理する必要がでてきた。