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2014年9月17日の断片日記

▼「お帰り。」「…どうして、お帰りなの?」
 
 
▼君とはめっきり言葉を交わさなくなった気がする。夏の入口には僕らは遊び疲れていたはずなのに…。昔からそうだが、別れたり戻ったり、仲違いをしたり修復したり、とにかくそういうことをしながら、僕は(おもに独りで)永遠はないことを受け取り直している。そしてそのたびに永遠とは瞬間のことであり、瞬間には人間はたどり着けず、そこにいるのは神様だけだということを思い出す。あわせて、僕が瞬間に到達するその一つの可能性をもたらすのが君であることを。


▼元来、沈黙を歓迎するたちである。寡黙であること。静寂、静謐さ。そのいずれもが誠実さや尊厳とつながっていると考えているからだ。(ここでだらだらと饒舌に語っていることとそのことは無関係なのである!)ゆえに、君と言葉を交わさないことにいったい何の問題があろうか。そもそも君は僕の目の前にいるが、目の前には存在していない。そう、わたしのせかいの住人であることは間違いないのだが、君は確かに存在しない。君以外のものだってそうだろう。住人は僕が見ることをはじめて、ぼくが神として治めることになったわたしのせかいにのみ存在するもので、眼前に存在するものではない。
 
 
▼だが、今回ばかりは僕がしゃべりたがっているというのが問題だ。なぜ君としゃべりたがっているか。それは時を恐れているから。僕はずっと変わり続ける君を変わらず見ていたいのにもかかわらず、同じ速さで、すごい速さで、進んでしまう。時を恐れるとしたらそういう意味でしかない。10代の頃の僕が抱いた時の果である死に対する恐怖は、ソクラテスの方法とは別なやり方で僕は乗り越えている。避けられないのならば、全てが終わるなら、道化である以上は美しく哀しくあることだけを目指すべきだと考えることで克服した。だから僕が死を恐れていると感じたとき、それは時の速さを恐れていると言い換えることができる。あるいは実際にはその前に控える痛みを性懲りもなくまた死と混同しているだけかもしれない。そういう処理を優先した混同はあちらこちらで頻発しているような気がする。


▼話を戻す。僕は一方的にしゃべりたいのではなく、会話をしたいと考えているようだった。そしてそれは果たされてこなかった。果たされてこなかったからこそ、会話をしたいと考えているらしいことに気づいたのだ。僕が口にする何事かに対して、君はうなずくか、首をかしげるか、無視をするかのいずれかだった。否定をしないあたりは絶妙だ。その後のすべてがわたしのせかいの中で起こるように計算されている。こうやって信仰心は高まっていくのだと書きながらそう感じている。


▼冒頭の「会話」は久しぶりにした「会話」であり、君との今日の「会話」のその全てである。なんと素晴らしいことだろうか。2年前の「言葉を大切にしないって例えば?」に次ぐクリティカルさだ。「どうしてお帰りなの?」その問いに僕は答えることができなかった。あなたのいるここは私の帰る場所じゃない、私の帰る場所にあなたは必要ない、私はどこにも帰らない…なんでもいいが僕を見ずに言葉を宙に漂わせる君のやり方を前に僕は感動し考え込むしかなかった。そもそも自分で7月22日に同じようなことに疑問を呈していたはずなのに。僕は結局君なしでは本当に気づくことも考えることも理解することも、哀しむこともできないのだ。
 

▼少ない言葉で核心を突く。それは多くの言葉を内側に住まわせておかないとできないのではないのかといった、そんなピュアな信心がどこかにある。結局はそれもまた君をミューズと誤解するための材料でしかないのはどこかで気づいている。