読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

2015年4月13日の断片日記

▼言葉が好き、まわりの話を読んでいて考えたのが(息を吐くように本筋からそれるが)、言葉と私の主従関係についてだ。
 
 
▼言葉が好き、と言っている時の主語は当然私なわけだけれども、私が主で言葉が従である関係性を当然のように受け入れても大丈夫なのかなという疑問。もちろん私がいなければ(私から出る)言葉は発されることもなければ記されることもない。しかし、自分で発した言葉によって自分が歩く道が変わるということもある。その「言葉に導かれる」点において主従は入れ替わっている。
 
 
▼往々にしてそのような言葉は自ら発したものではなく、本の中や他者との関係性の中で出会うものだから、「私は言葉が好きです」の関係性にゆさぶりをかけるようなものとはまた違うという考えも成り立つ。「言葉が好き」というときの「言葉」は総体としての「言葉」あるいは、それが引き起こす悲喜こもごも、さらにはその周辺。いずれにしても私とは切り離された存在・対象としての「言葉」である、と。それを愛すのであれば、対象が私にどのような働きかけを起こそうと起こすまいと、私を出発点としたその主従関係に異論はない。ように思える。
 
 
▼だがやはりひっかかるのは、「私は私がつむぐ言葉が好きです」という含意がそこにある場合だ。この場合、(ものすごく単純化するのであれば)思いがけず発された言葉に行動が縛られるように、「私は私がつむぐ言葉によってその言葉が好きだと思わされています」つまり「私がつむぐ言葉は、私がその言葉を好むように仕向けています」という主従の逆転関係も成立するのでは?


▼書物や他者とのかかわりの中で出会う言葉―すなわち私とは切り離された客体としての言葉だ―のうち、その後も自らのうちにとどまるような言葉は、そもそもが私の言葉だったのではないか?という強めの信条がある。哲学や芸術を通じて、僕がかつて考えていたことを受け取り直す。それは共感とは違うものだ。触れた瞬間にはっとする言葉、そこで記された意味を越えて僕の中に沈殿し、根を張る言葉。それらはもともと僕が考えていたことで、語らねばならないことだったはずだ。忘れてしまったもの、あるいは当時は語りえぬものであったがゆえに顕在化しなかったもの、それらが準備を整えて目の前に提示される。もっと前から提示されていたものが見えるようになるという場合もあるだろう。いずれにしてもあらゆる言葉の中に自分のものである(そしてそれは"自分である"に近い)ようなものを見出す場合、いよいよ「私は言葉が好きです」の関係性は揺らいでくる。


▼過去は未来。生まれたときに言語を持たなかったがためにかたちにならなかったあれやこれ、それすなわち世界をただ見ることができたからこそ見えたもの。そういうものがある。あるはずだ。僕は幸福なことに言語を手にして死んでいく。平和に死ぬことが叶えば、生まれたときにみた世界そのものを自らの内部で語れるようになっているのではないだろうか。だが、平和に死ぬことができない可能性もある。言葉を忘れていくことだってあるだろう。自我そのものを失うかもしれない。だからこそ、生きているうちに瞬間―それは世界そのもの―を見たい。見て、語りたい。そのために生まれたときにこぼれおちたあれやこれやを必死に受け取り直し、そこに少しでも近づかんとしているとこういうわけなのである。
 
 
▼このようなわけで、僕は言葉をどちらかといえば好んではいるが、「言葉を好きだ」と臆面もなく言いきることに対しては若干のためらいを感じている。そこには怖さがある。しばしば戒めとして示されるような、いわゆる言葉の運用に対する怖さではなく、主従関係の曖昧さに対する恐怖。警戒心にも似たものかもしれない。最近僕は僕をコントロールすることに対してのオブセッションがある。僕が僕の人生を生きているということはどの程度確かなことなのか。…最初から最後まで大幅な脱線だ。とりあえず記録として書き残しておく。