2015年7月14日の断片日記

アウグスティヌス講話 (講談社学術文庫)

アウグスティヌス講話 (講談社学術文庫)

 このような状況を前提とするとき、『告白』に記された回心のドラマは、本当に理解されます。普通、「貞潔の女神」は、カトリック的理想の生活、これに対して「古なじみの女ども」は、過去にアウグスティヌスが関係した女たちのように解されます。しかし、もしそのように解するとすると、十六年間アウグスティヌスと生活を共にしたその女性も、その「古なじみの女たち」の仲間に入れられてしまいます。もしもそのような解釈が正しいとすれば、アウグスティヌスは血も涙もない恩知らずとなるでしょう。たとえ「聖人」と讃えられても、じつは冷たい「偽善者」となるでしょう。しかしその解釈は間違っています。
 その女性は、今はもう「貞潔の国」にいるのです。貞潔の女神のうしろに隠れているのです。「古なじみの女たち」とは「女」ではなくて、すべてが空しいと感じているアウグスティヌスのうちに、なおかつ執念深く残っている「肉の欲」、パウロのいわゆる「古き人」なのです。
 そこで、神の声をきき、光に照らされ、はげまされて、思い切ってその女神の胸にとびこむとき、アウグスティヌスは同時に、もはや永遠に離れることのできない愛のきずなによって、別れていった女性と再会し、一つになるのです。それゆえアウグスティヌスにとって、「古なじみの女たち」のささやきをふり切って「貞潔の女神」の胸に身を委せることは、別れた女性への未練をふり切って教会の信者になることではなくて、協会の中で、祈りにおいて、別れた女性と再会することだったのです。

僕にアウグスティヌスを読むように勧めた人は(そんな人は1人もいないのだが)、その理由をことごとく彼の実存的な部分においていたように思う。実際そういう読み解きを第1話において展開している本書をとても興味深く読んだわけである。
 

 では、この世は既に地獄であると何故いわないか。そこです。この世は苦しいことにみちている。さながら煉獄である。しかし地獄であるとはいわない。なぜならこの世は苦しいけれども希望があるからです。しかしもしわれわれがこの世の中で絶望したら、そのときこの世は地獄になる。

 絶望している人間には希望を!である。死後の世界はないだろうと考える僕でも、どこかでこの苦しみから解き放たれて救われるのではという淡い期待はある。そうした煉獄であるこの世の中において、では希望とは何か。僕が期待するような「救われること」は希望たりうるのだろうか。確かに救われることはひとつの希望である。だが天国であろうが地獄であろうが、「ここではないどこか」であるところの死後の世界は、現実としての「いまここ」の僕にとってはただそこで待ち受ける圧倒的な無でしかない。そうしたもののうち善とされる無の中へと導かれることで救われるのではなく、生を受けたこの世の中で救われたいと願うこと。これが僕が感じている期待でありここでいう希望であるのならば、どうだろう。果たして執着が過ぎるとは言えないだろうか。どちらにしても無であるというのに!仮に無そのものが希望であるとすれば、それはそれであまりに悲劇的である。そこで、ただ見ることで瞬間(それは永遠でもある)に到達して、神様の姿が見られるのならばそこにこそ希望があるのではと信じ、そして何よりそう思えることこそが希望だという妄執にとらわれる青年がこうしてできあがるわけである。幸いにして(そう幸いにして!)、僕はまだその気の遠くなるような祈りの日々のうちにいる。