2015年9月23日の断片日記

▼色鮮やかな棚の中からオレンジジュースを取りだす君の白い腕を後ろから覗き込む。昨日話していたことからの地続きをそこに見て、僕が僕として昨日から続いている可能性を思い少しだけほっとする。鏡として利用可能なわずかなスペースを前に前髪を整える姿に苦笑い。向き直り「ほら早く行くよ」と当たり前のトーンで言われた道化はしょうがないな、の風をまといながら半歩後ろを歩いていく。僕の人生をぼくが見ている。よくふるまいたまえ、と言っている。
 
 
▼君の何回目かのクリティカルな言葉を受け取って以来、それぞれの、あるいはそれは僕からすれば僕らのと言い換えてもいいかもしれない(それは君から見たときに「私たちの」にはなり得ないのだが)ことを思って穏やかな気持ちになったり哀しんだり忙しい。この件に限らず先のことを考えることが少しずつ増えてきていて、ちゃんとした人になるということに対する恐怖や難しさを感じてもいる。人の死や病気のニュースに以前よりナイーヴになるようになったし、お金の出入りにため息が伴うことも増えた。そのすべてが悪いことだとは思わないが、そうした先のことを思うたびに「今」「瞬間」への憧憬がぼやけていくような感じがして、焦燥感めいたものを覚えるのもまた事実だ。
 
 
▼知らないことは恐ろしいし、不安の源泉にもなる。だからというわけでもないだろうが、勉強欲がモリモリで、目と手と口を動かしている機会を増やすようになっている。以前も書いたように、勉強は逃避にも使えるから、暗闇から目をそらすためのものにならないようにしなければいけないと思う。もう少し前向きに信じてあげてもいいのではと諭す自分もいるのだが、自分を裏切った回数が一番多いのは自分なわけで、少なくとも他人と同程度には疑ってかかった方がいいのだ。もちろん、それすらも何らかのエクスキューズである可能性も念頭に置きながら。何事においても用心して生きるにこしたことはない。