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2015年10月18日の断片日記

▼フレームの話、だった(らしい)。ので、その話をする。んやあ、短歌が身体の中に入ってきてから、5音と7音にやけに敏感になったねというありきたりな話なのだが。子どものノートをみていても音数に意識がいくようになっていて、この年齢になって世界認識のための新しい材料を取りこむことができたということと、またそのことをそのときに認識できたという喜びとでそのことについては存外いい気分なのであった。
 
 
▼カクテルパーティー効果にやられながら生きている。周囲の会話がずっとミュートでも、むこうからやってきた男女の口からすれ違いざまに聞こえてきた君の名前(もちろん別人だが)だけはとんでもない音質と音量で飛び込んでくる。のだ。いびつな関係は、それはもういろいろあるけれど、総量としては愉しくはないと断言してもよいだろう。でもそういう問題ではないのだと言いきれてしまうような、最後の瞬間をマジカルなものに放り投げてしまうような感覚がそこにはあって、終わりが何度あったとしてもそこに沈澱していってしまうのはそのせいなのだ。
 
 
▼それでも…どうやらすぐれない。のだった。メメント・モリというか生の一回性を過剰なほど大切に、意味のあるものだと考え過ぎてしまうことが、いろんなことの不調の根っこにあるのは間違いない。明日がある保証なんてないし、もっといえば次の瞬間がある確かな理由だって本当はないはずなんだ。だからこそ、いまここにとどまりたいと思う。でもそれは無理だとどこかでは分かっていて、きっと神様にしか成しえないことなんだろうと考えてもいる。同時に僕らには到底不可能なことという文脈が同じだという理由で「誰も見ていない場所」に神様がいるんだろうって考えるし、だからこそなんとかして会いたいし、瞬間に到達してみたいと考えている。のだ。
 
 
▼一方で一回性を強く(それは恐怖にも似ている)思うからこそ、言葉で楔を打とうとしている。抗っている。仮にそれが辛い試みであったとしても、日記を書くということも短歌を快く感じた心性も僕には必然性があることで良かったと思う。僕の世界は僕の世界であるはずなのに、そこに流れている時間だけはどうしてこんなにも僕の意に反するの?なんとかそれを御す方法はないものだろうかと震えながらも考え続けている。
 
 
▼僕の「全ての日が同様に重要でない」という態度は明らかにその一回性への不安から逃れる一つの方法なのだろうと理解できる。そんな「暦からの解放」を何とか体現しようと日記のタイトルもフラットな状態にしているつもりなのだが、結果的に暦というものさしを持ち込んでいるからそこには説明のつかない人間の不安定さが表れているといえる。さらに書いている内容は「書きながら考えている」「出てきたものを現在進行形で書き連ねている」ものがほとんどを占めているにも関わらず、「出来事」は時系列をめちゃくちゃにして書いているので「10月18日」の日記で起きたことでもそれはもっと昔に起きたことだし、「最近」は最近じゃないし…と分裂気味。つまるところ、どうやら僕は僕の継続性・永続性を何とか担保しようとしているようなのだけれどもそれだけをしようとすると、それは時間に自身を預けてしまうことになって、何にも保証されない、因果関係も必然性もない地獄に身を投じるのと同じになってしまうから、地獄は地獄でもこの身を引き裂いてでも何かを成すということの地獄を選んだのだろうと認識することができる。それをかつて僕は革命と呼んだか。せめて全てを煉獄とするにはやはり信仰の力が必要だ。実は連綿と続いていたこの一連は、君が当たり前の顔をしながら「これから」を持ち込んだせいでまた一気に芽吹きつつある。それでも、いやそれこそが神様に会うためには君が必要であることの証左ではあるのだが、僕は到達を果たす前に実在しない君に食い殺されないように踏ん張る必要がある。でも、明らかにもうほとんどギリギリだ。