2015年11月1日の断片日記
▼昨日の日記を書き終えてから、そういえば数週間前に君が右足をけがしていたことを思いだし、その時に使っていたサポーター?のようなものを借りようかなと思ったのだけれども、そこに卑猥な何かを感じ、ひるんでやめた。モノの貸し借りが結構苦手だ。僕は僕が選んだもので構成されていて、だから僕が身に着けていたり所持しているものは、それは僕なのだ。誰かの持ち物も同じように思うから、気軽にものを貸したりすることや借りることに抵抗を覚える。そこについては君も同様のことを考えているようで、そんなような話を以前してくれたのだけれども、彼女のそれは僕のそれよりももっともっと身体的なのだった。
▼穂村さんの『世界音痴』を読んだ。自然にふるまうことができない感覚がとてもよく分かる。僕が演じることにこだわるのは、セルジュ・ゲンズブールにその大切さを教えてもらったからというのもあるけれど、根っこには自然に当たり前のことができないのならば、自然さ以外のことを演じてその場に居場所(領域、が近い)を作るしかないだろうって考えたからだ。『「私」のための現代思想』に社会のせいで苦しいならそれは社会がおかしいのでは?だって今の社会って完璧ではないのだから。みたいなことが書いてあって、そうよねえとか思ったのだけれども、それでも外界を変えるほどのアクションを起こせる人間ではなかったから、内部をできるだけ損なわないように、同時に外部にできるだけ目立った傷がつかないように、ひっそりと場所を設けて生き抜いてきた。
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▼『「私」のための~』の話が出たのでついでに記しておく。
ここで翻って考えてみると、仮面をつけること自体を辛いと感じているのは、仮面をつけていない状態を知っているからです。役割を演じること自体を辛いと感じるのは、役割を演じていない状態のことを知っているからです。このとき「世界劇場」において、演劇における役者に相当するのは誰なのか、つまり「役割を演じている」のはいったい誰なのか、「仮面をつけていない」存在者とはいったい何なのかという問題に遭遇してしまいます。(p.85)
僕が実存主義に撃ち抜かれた原因のひとつがここにあるのだろう。僕は演じることを辛いと思ったことはない。関係性が横たわっていればその中で最適であろうものを選択することは当然だと思っているし、ひとりでいても僕は常にぼくに見つめられていて、そこでも結局ぼくに見られている僕を選択し演じているのだから。でもこれを読んで感じたのは、辛く思わないということは、仮面をつけていない存在者(現存在)が僕には存在しないのでは?という疑問と不安がどこかにずっとあったということで、そこに滑り込んできたのがキルケゴール先生だった、ということなのだろう。
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