2015年12月2日の断片日記

▼半月ほど前の話だ。


▼欄干から少しだけ身を乗り出しながら「あれは何のお店?」と聞いてくる。あれは…1階が旅行代理店だね…説明を聞いているのかいないのか、手すりにもたれかかる君はもうほとんど眠ってしまいそうだった。風邪をひくといけないから、あたたかい場所へもどろうと声をかける僕の手を払い、かけだし、その手すりを使ってくるくるとこちらを向いたりむこうを向いたり。映画のようなことをする人がまさか本当にいるとはね。でもその光景は映画よりもずっと映画らしかった。
 
 
▼えへへ、と一音一音はっきりと発音するその顔を見ながら、僕はもう一度。もどろうと言った。「しょうがないなあ」と言いながら少しの段差を飛ぶ君。しょうがない。そう、しょうがないのだ。僕は眼前で展開される泡のような一瞬の連続を眺めながら、そのことたちに宿るものを探していた。
 
 
▼怒りをどうしたいんだろうと11月初めの僕は言っていたけれど、なんのことはない、許したかったのだ。許してようやくそのことに気づく。もちろん、怒りをぶつけたいがために怒る人もいるだろうし、私の怒りを伝えることが目的でそれを表明する人もいるだろう。自分が被った不利益を正す・取り返すために怒りを手段に使う人もいる(それはポーズであり手段だから、前の2つとは異なる類のものだが)。でも僕の場合、ほとんど許すために怒っていたかのではないかと思えるほどに、「そうか、僕は許したかったんだな」がすとんと胸に落ちてきた。考えてみれば許したい人に対してしか、怒ることはしないかもしれない。その他の人間に対しては、深いため息とともにやりきれなさを吐き出すか、黙って傷ついて終わりにしてしまうかだ。このままかかわり続けることが何より自分にとって不幸なことだと思うから…。
 
 
▼怒りは関係性の中で沸き起こる。憤り(いきどおり)はもう少し「わたし」によっているかもしれない。いずれにしてもそこには他者あるいは対象の存在がある。自分に対する怒りというものもあるが、自分に対する怒りの導火線に点火する「何者か」がいるはずである。こんなこともうまくやれないなんて…といらだつとき、それは「こんなこと」を「こともなげに」やってしまう「誰か」との比較においてその怒りがこみ上げてくるのである。そして怒りのプロセスを考えたときに、怒るかどうかの選択権が自分(意識)に与えられているとはおよそ思えない。自分の意志とは無関係に、怒りはわいてきてしまう。では、自分の中にないその起爆装置はどこにある?関係性の中にその全てはある。



▼一方で許すというのは個人の中で起こる。「和解」という関係性の中での許し合いがあるが、あれはほとんどの場合パフォーマンスにすぎない。それは本当に許しているかどうかは別の話、などという次元のことではなくて、「和解」は「和解」のために行われるものであって「許し」のために行われるわけではないということである。もちろん、相手に何かをしてもらったり、謝られたりしたから許そう、という場合もあるだろう。だがそれにしても、謝られることと許すこととはまったく別問題だ。ちょうどそれは、「和解」をすることと「許す」ことに確かな因果関係があるとは限らないことと同じだ。すなわち、「許し」は自分に選択権がある。何がきっかけであろうと…いや、あるいはきっかけなんてものの有無はほとんど問題ではないのかもしれない。あくまでも自分がまあいいか、と思えるかどうか、そして何より重要なのは「許したいと思っているかどうか」に全てはゆだねられていて、その意味において「許し」は個人の中でのみ起きることなのだ。理由はどうでもよく、とにかくわたしがどうするか、の世界。


▼怒りは、「怒ろう」という意思のもと選択されるものではない。もし「よし怒ろう」などと思って怒りが選択されていた場合、先にもふれたように、それはポーズであり手段となる。許しにもそういう要素はないわけではないが、それらのタグがついたものは今回は捨て置く。そうではなく、怒りそのものであり許しそのものの話である。その前提に立つと、怒りはそれを(意識レベルで)選択することがなくても発生するが、許しは「もう許そう」という意思があって初めて実行されるものとなる。その「わたし」の有無(それは決断を下しているのはわたし以外であるという可能性を含んでいるのは自認している。ここでいっているのはどういう形であれ、私の意思が怒りの際よりも「濃く」そこに介在しているというニュアンスだ)が、怒りと許しの決定的な差異だ。ゆえにそれらは本来対になることはない。許すことを決めて実際そうしたところで怒りの全てが消えてしまうわけではなく、実はひそかに蓄積されていくということがその証左である(まあ確かにうやむやにはなるのだが…)。だが安心していいのは、関係性が再度構築されることさえなければ、怒りが再び表に顔を出すことはないということだ。そう、怒りを取り除きたいのならば、その関係性を捨て、あとは時が過ぎるのを待つ―これだけが術であり、許すことがその方法ではないのである。怒りを捨て去るということは関係性を放棄・破壊することであり、許すことは、関係性を継続していくことの確認作業である。僕が許したかったのは、あるいは許したいと思っている相手にしか怒りを抱かなかったのは、これで説明がつく。そして、くれぐれも繰り返すが、許すことは怒りを捨て去ることではないのだ…。


▼よりあたたかい場所へと向かう道中、君が歩きながら眠ってしまわないように、君の肩と背中に話しかけていた。言葉ではなく、笑い声が返ってきた。そう、全ては半月ほど前の話だ。