読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

2016年2月18日の日記

▼1月にトーキョーでも雪が降って大騒ぎだったころ、雪の降る街で長く過ごしつつも今やすっかり都会の人間の顔をしている僕もまた、周囲の人々と同じように足元ばかりを見て慎重に歩いていた。雪もやんで数日したのち、疲れた群れの中で、「雪の降る日の空」を見るのをすっかり忘れていたことに気づいた。
 
 
▼天気が悪い日の空を見るのはおもに屋内からだ。窓越しの空と、外でじかに見る空は違う。外での空は、空の音が聞こえる。窓から身を乗り出して…というのができれば屋内からでもいいのだろうけど、最近はそういう窓にもとんとお目にかかっていない。ビルは転落防止で中途半端にしか開かないし、車から顔を出したら叱られる。それ自体は間違ってはいない。僕らが空を見に、その足で外へ出ればいいだけなのだから。
 
 
▼それで…雨の日に、雪の日に、曇りの日に空を見たわけだけれども…僕は「空」とは何なのかが分からなくなってしまった。天気が悪い(そもそも良い悪い、という判断も気にはなるが)日に僕の目に映っているのは「雲」ではないのか。だとしたら僕が「空」だと思っているのはおもに「青空」のことだということになってしまう。いや、青空だけでなく夜空や夕焼け空も「空」だと自分の中で位置付けている。ということはとにかく晴れてさえいればそれは「空」だと僕は考えているのだということになる。だが雲が頭上を覆う「くもり」は「曇り空」と呼ばれているし、そもそも「空を見てごらん」と誰かに促されれば僕はその日の天候にかかわらず迷わず上を見上げるだろう…。視界に飛び込むその空間が雲に覆われているとき、僕は「今日は空が見えませんね」とでも言うのだろうか。
 
 
▼手持ちの国語辞書には空の意味として「地上から離れた高いところに広がって見える空間」とある。ではその空間が雲に覆われていた場合、雲の手前を空とするのか、それとも雲に隠れて(?)しまったところを空とするのか、それとも雲そのものが「空」であるのか。だが雲=空としてしまうとちぎれ雲がぷかぷかと浮かんでいる場合、それ以外の部分が何なのか分からなくなってしまうから、やはり空と雲は別物と考えるのがよいのだろう。いずれにしても雲の背後を空としようが、あるいは雲の前を空としようが、とにかく「青空」が見えるという形以外では少なくとも日中の「空」を認識することができないということになる。


▼おそらくは天気に関係なく(つまり雲も含めた)外で見上げたその空間が「空」である、というのが正解なのだろう。そうなると「空」というのは、確かにそこにあるのに「空」として正確に認識できない(無数の“今・ここの空”があるだけ)存在になる。主観的な「空」の連続…そしてそれらと客観的な定義としての「空」には大きな距離がある。これはとても面白いことだと思う。そういうものと近似の存在として、時間などの概念的なものがあげられるが、それらと空とが同じであるということは感覚が強く否定している。何せ、空を見てと言われて大多数の人が上を見上げるということは、どうやら空は見えるものらしいのだから。それでも「あるけどない(ないけどある)」という特徴は時間などの概念存在にとても近しい。気体は小学校レベルの実験でもその存在を証明できるが、空はあることを証明できるのだろうか。いや、この視界にそれが映っていることが何よりの証拠、ではあるのだが、それでも空は見えているけれど、絶対に見ることができないものでもあり…。