2016年5月6日の日記

▼旅というのは難しくて、油断しているとすぐ日常から抜け出すとか、たまったストレスを発散するとかそういう方向性での計画になってしまうから気をつけなければいけないと思う。旅にそういう理由を持ち出すのはすごくさびしい話だ。非日常ではなくて、日常の延長線上にそれはあるべきだと思う。旅行や旅を、生活を成立させるための原動力…もっと俗な言い方をすれば嫌なことを我慢するための充電、みたいなものにしたくない。それはもうほとんど観念のようなものではあるのだが、そういうことを今年は強く思った。というよりは年々そういう思いが強くなっている。何をそんなに肩に力を入れているのやら…。とはいえその理由は自分にはわかっている。でもまだ、迷っている。
 
 
▼3日間で11の都府県を移動してうち5つの都府県でその地を踏み空気を吸った。毎年この時期に、神様を探すためあるいは「あの時」から逃げるために西を目指すようになってもう5年になる。そういうものとは別に、単に暑さから逃れようとした時も含めて内陸の府県ばかりを自然と選んでいたのには根底の部分でゆるやかなつながりがあったようにさえ思える。久しぶりに海のある土地に赴いて…海がある街は確かにこんな感じだったよなと寂れた夜の駅前で思う。活気とある種の閑暇とあるいは終わりの見えなさと…。そして何よりも1日がちゃんと24時間ある感覚。今となっては冗長さすら覚えるそその時間の流れに身をまかせながらようやくよみがえってきた懐かしさという感情を前に、僕はもしかすると自分が生まれ育った町に愛着があったのかもしれないなどとさえ思えた。結局は愛憎、が最も近い感覚なのかもしれない。それでもそれは失われたからこそ立ち上がってくるものであるという確信めいたものもどこかにはあり、子供たちは帰るための家を焼いて出立の時を迎えたというような話ならば、このような感慨は抱かないのではないだろうか。全ては意志と意思の介在の問題だ。
 
 
▼バスに揺られながら高原は最高だななどと思ってみたり、新幹線の車窓からどこの県なのか分からない風景(中規模な工場とその社宅のようなものが点在している。一定の間隔でそれは現れる。)を何度も見て大変気にいったりしながら旅は進んでいき、それでも結局毎年のように神様がいるらしいところに挨拶をすませることも含めて全ては日常の延長上にあり、だからこそ僕は旅先でほとんど近所でするようなことばかりするし、昨年とも一昨年ともその前とも同じことをしているのだろうと思う。でもそれは紛れもなく僕にとっては人生であって同時にその地の人にとっては生活である。僕には人生と生活が一致しているところに憧れがあって、それを疑似的にあるいはメタ的にであっても強制的に作り出すことで、希望のにおいを感じているのだろう。その行いが正しく瞬間へ歩みを寄せていると言えるのか、それともまた偽物を掴まんとしているのかは未来の僕にしか分からないことであるのだが。