2016年6月19日の日記

▼そういえばセルフヘルプの手法として「書きだす」というものがある。社会心理学の入門書を読んでいたら、まあそれに似たようなことが書いてあって思い出した次第。そのときに思ったのが、言葉にして異化してなんとか生きてるみたいなことを僕が言うとき、やっていたのはそういうことだったのだなあということだった。子どもや親を相手にその手の助言をしながら、自分がしていることについてはそういう意識が働いていなかったことが面白かった。
 
 
▼面白かったというか…もう少し丁寧に追う。「書くこと」が精神衛生上よいのだという知識が(ちゃんと)入ってきたのは、書き始めてからずっと後のことで、自分がどうして飽きもせず15年以上書き続けているのかその理由が異化にあったことに気付いた時よりもさらに後だった。にもかかわらず、「書くこと」の効能を知ったときから今の今までどうして自分の行いと結び付けることがなかったのだろうか。そういう抜けとかエラーは、どういうときに起こるのか。自身の行いに対して「異化」という一応の解釈が出てきていたから安心してその問題にはそれ以上踏み込まないようにしていたからなのか?だとしたら今結びついた理由は…?
 
 
▼別の話。別館の方で紙のおねいさんに助けてもらったわけだけれども、本のタイトルにたどり着けたこと以上に、元記事の最後の方に書いてあった

昔に好きだった気持ちとかはどこにいってしまったんだろうか。また読みたいと思う気持ちはただの懐古なんだろうか。

がとても印象に残った。のだった。自分の文脈に持ち込んで申し訳ないなと思いつつ。たとえそれが写真であったとしてもそれはもう「その瞬間」ではないわけで、じゃあ「その瞬間」てどこへ行ってしまったの?という疑問がずっとあって、それは気持ちであれ何であれ全部そうで、僕の持ちものだったものはみんなどこかへ行ってしまう。この手に残るのは、いつだって形を変えた(そして変え続ける)何かであることをとても不思議に思うのだった。それでいて瞬間そのものは不変で、そこにたどり着ければ全てが解決するのだけれども、そこには決してたどり着けず…みたいなことをまたぐわんぐわんと考える。でもその世界認識すら、ヘラクレイトスらが言っていたことのそれこそ「断片」みたいなものだと知ったときに、僕は気が遠くなる思いと同時に僕が言うようなことは全て既に誰かが言っているのだということに改めて気付けて、そのたびに安堵し、よい気持ちになる。今回もそうだった。
 
biglemoi.hatenablog.com