2016年6月29日の日記

▼ストレスを感じる暇もないほどに忙しい1か月が終わろうとしている。とはいえ忙しさが止むわけでもなく、この後も大変なのだ。返却期限までに読み終わらずに本を返すあの悲しさ。時間が増えないなら、体力を増やすしかないのだろう。
 
 
フィッツジェラルドの『若者はみな悲しい』を読んだ。若者には希望や可能性があるという言説は若者であった時から苦手にしていたが、ここで描かれているような悲哀が悲哀以上の何かに感じられ、それが仮に希望や可能性と呼ばれるもののせいだとするならば、あの言葉には一定の正しさがあったのではないかと今になっては思うのだった。

若者はみな悲しい (光文社古典新訳文庫)

若者はみな悲しい (光文社古典新訳文庫)

それまでの夏から秋、冬、春、さらに夏があって秋―。デクスターは、ジュディ・ジョーンズの唇としか言いようがないあの唇を得たいがために、おのれの生きる力を使い込んでいた。彼女は乗り気になって、その気にさせて、意地悪をして、知らん顔をして、冷たくあしらった。こんな場合にあり得るのかと思うほど何度でも、ちょっとした嫌がらせを繰り返す。たとえ一時でも好きになったことをくやしがり、その仕返しをしているかのようだった。手招きして誘うかと思うと、つまらなさそうに欠伸しておいて、また招く。これに応じる彼が、つい苦い顔になっていることも再々だった。幸福感に酔わされることがあれば、精神を痛めつけられることもある。無断で不都合なことをしでかされ、はなはだ迷惑する。馬鹿にされ、踏みつけにされ、女のために仕事をおろそかにさせられる。それがジュディには楽しいのだった。しかし彼女がデクスターへの批判を口にすることはない。沽券に関わるというのだろう。あなたなんかに興味ないと言っておいて、また本心からそうらしいのだから、批判するほどの男ではないのだった。  (「冬の夢」p.116)

 
この部分を…というかあちこちに登場する、象徴としての女性たちを読みながら君のことを考えていた。君との関係は、しばらく前からねじれてしまっていて、それはまあいつものことだといえばそうなのだけれども、時間を重ねれば色んな事を考えるようになるものなのだ。愛の歌が愛をうたうだけで間に合うなら…というやつだ。その通りだと思う。
 

戦争が到来して、どことなく安堵した青年はデクスターばかりではない。感情がもつれて蜘蛛の巣のようになった日常からの解放として、何千という若者が大戦を迎えたのである。  (「冬の夢」p.129)

 
それにしても似たような状況ではないかね。何にせよ…やはり歴史の最下流にいる「今」の人間としては、戦いには反対せざるを得ないのだった。


▼最近の体力の低下は「俺も歳をとったなあ」とかそういう生易しいものではなく、明確な「衰え」でありその先に「死」があるのだと感じられるものになっている印象があった。なんだかんだと先延ばしにしてしまっていたが、あの人の誕生日の辺りには、ジョギングを再開させようと思っていた。ので、した。そういうことを思えば、暦も悪くないものだ。
 
 
◆自宅兼スナックの2階閉店後明かりが消えるまでの哀しみ