2016年7月2日の日記

▼誰かが死なないと分からないところまで来ているとして、果たしてその誰かが死んだとして本当に分かるのか?という疑念もある。
 
 
▼その誰かだって「誰か」ではないのだ。兄弟、あるいは父母や祖父母、子や孫であるかもしれないし、恋人であり妻であり夫であるかもしれない。友人であり、同僚であり、先輩や後輩である可能性だってある。だが最も重要なことは…そうしたつながりや属性があろうとなかろうと、その人である限りその人にとってはそれはもう「誰か」ではなく大切な存在であるということだ。もっといえば、そうであってほしいということでもあるのだが。
 
 
▼尊厳と誇り。それがあるから、自分の足でまっすぐ立てる。自分の尊厳くらい、自分でこしらえて守れるようにありたい。それを大きな何かに仮託したり重ね合わせたりしながら強い言葉を使って立っているふりをする様は、あまりに、あまりに悲しすぎる。あの暗闇の日々は「感情がもつれて蜘蛛の巣のようになった日常からの解放」として求めるには代償が大きすぎる。この世の地獄を招き入れるのではなく、煉獄であるこの世を生き抜くために…自分の力で立ち、見て、そこにあろうとすることを目指さなければならない。
 
 
▼明日も暑くなるようである。明日の仕事の準備をしながら、誰も死なない日であってほしいと思った。ナイーブさは時として悪となるのだとずっと考えているが、時としてというのが肝心で、強さも時として悪となりうるということを、忘れてはいけないだろう。