才能のなさを呪う、ということのもっともっと手前の

▼才能のなさを呪う、ということのもっともっと手前のところでの焦燥感。自分には語るべきこと、書くべきことがないのではないかという恐怖。そう、それは恐怖そのものだ。わたしのすがたとは。わたしの怒りとは、楽しみとは、人生とは…日々生きていて、語るべきものすら持たぬなど、ではこの日々はいったい誰のものなのか。いや、他の誰かのものならばまだましなほうで、およそ誰のものでもないのではないかという空洞を抱え、あるいは空洞に抱かれるときの空しさよ。そしてその先にある、語るべきことはあるのだけれども、うまく言葉にならないというまた別の苛立ち。そこで初めて才能のなさを呪う権利を手にできる。果たして僕は今、それらのうちのどこにいるのだろうか。
 
 
▼以前こんなことを書いている。
 
wowee-zowee.hatenablog.com
 
改めて読み返すと思考のドライヴに手がついていっていないのだなという感じがする。それでもそのときはこれで十全だと感じているわけで、そのことはとても面白いと思う。まあそれはいいとして、このときの衝撃はいまだ僕の中に残り続けていて、ゆえに「必然性のあること」に出会うたびにそれを思い出すのであった。
 
 
▼この夏に見た映像の中のその人は自分のために歌わなければいけないことを歌っていて、それなのに、いやだからこそ、僕の心は強く打たれたのだった。それは件の書物に載る言葉たちのほとんどが、他でもない書いている当人のために書かれているのと同じだった。だから僕は、その画面から伝わりくる熱量や必然性の強さにあてられて、あの言葉たちのもつそれを思い出して、とにかく身動きが取れなくなっていた。素晴らしい芸術を前に打ちひしがれると言うのは、なにも表現者だけの持ち物というわけではないだろう。いずれにしても僕には相変わらず必然性がないのだった。それだけは確かなことであり、そのことは僕に深い悲しみをもたらした。そしてその「悲しんでいる」という事実に僕はショックを受けていた。そのこともまた辛いものだった。ついにショックを受ける準備が整ってしまったのだ、そう思えてしかたがなかった。

つまり、必然性がそこに欲しいと思っているのだ。書かなければいけないという意味での必然性は僕にはある。そうではなくて、その言葉でなければならない、それを言わなければならないという強い必然性が。書き始めてから15年くらい経っていまもなお書くことそのものが目的で、たぶんそれはこれからも続いてはいくのだろうけれど、「書かなければいけないから」書くだけでなく、「書かなければいけないことばがあるから」書く、だとよりよいのだと思う。そしてそれが何より「自分のために」そうでありつづけてほしい。のだった。

まったくだよ。