読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

2016年10月12日の断片日記

▼コミュニケーションの折、頭を通って出てきた言葉は我ながらかなりよくなっているな、と思えるようにはなってきた。一方で、考えなしに漏れ出した言葉の信頼性のなさは深刻だ。言い終えてから、あの方が良かったとか他の言い方が選択できたのに、と思うことが増えてきている。相手を傷つけた、まで自身の影響を過大評価するつもりはないが、(最善でないにしても)よりよき可能性がそこにはあり、またそれを選ぶ力もあるはずなのに、それがなされなかった、あるいはできなかったという後悔や無力感。そういうものが最近大きくなりつつある。
 
 
▼仕事上のものならば、役割に入り込めば良いだけだから、それなりにうまくやれるのだ。その時の言葉たちは必ず頭を通って出てくる。出している。つまり、選べている。そういう実感がある。演じること…セルジュ・ゲンズブールと、そして何よりピエロとの邂逅は福音だったと今でもそう思う。そうでなければ今頃どうなっていたか…とにかく、そうやって場面場面で役割に生き、役割で暮らしているとふとした時に漏れ出すわたしが私を大きく逸脱して勝手に暴れ出す(という表現からは程遠いような規模と神経の細さ、であるが)のだった。そしてやってくる後悔の時。こういうとき、書きものは良いなと感じる。いちど頭の中を通したものを記すことができるからだ。なんだったら書いたり消したりまた書いたりも楽チンなのである。アンダー・コントロール。もちろん、最近のSNS界隈は即時性と相性がよいモノが多く―だからこそ僕とは相性が悪いのだけれども―あらら、そんな言葉を…というようなことが毎日のように見られているようなのだけれども。
 
 
▼とにかく、なるべく言葉を口ではなく頭から出すことを心がけたいと改めて考えた次第。こんなことを書くと「言葉はどこからやってくるのか」という疑問もわいてくるので、まったくとんでもないことである。心は見るためにあるもの。頭は考えるためにあるもの。感じるのはどこでだってできる。言葉はそれらのどこからでもやってきていそうで、同時にそれらのどこからもやってきていない感じすらある。


▼記しているのはおそらくは愛の話である。それすなわち、生活の悩みではなく人生のあれこれのことである。そう、やはり、人間は精神である。