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2016年12月4日の断片日記

▼なんでもそうやって年齢のせいにしてりゃあいいんだから、気楽なもんだよな。そう悪態をついたのは、まだどこかで自分に期待して、守ってあげたいとそう思っている自分がいたからに違いなかった。自分がかわいいから、自分にまた2本の脚でしっかりと立ってほしいから、そんな叱咤をした。それは確かだった。確かだったのに。
 
 
▼気がつけば12月である。これまでのそれとは異なった、なんとも形容しがたい焦燥感めいたものと諦念にむしばまれ続けたこの1年だったように思う。この数カ月、1年どころかこれまでの人生を振り返ってあれこれと考えることが多かった。でもそうやって振り返ってみても、そこに立ちあがってくるのは生活の痕跡ばかりであり、人生はどこにもなかった。あったはずの人生は、みなどこかへ行ってしまっていた。そうしてしまったのは紛れもなく自分自身。僕は逃れようもなく生活にからめとられていく間に、人生を失ってしまったのだった。過去にしか未来はない。すなわち、過去に何もなければ、未来はないのだ。
 
 
▼そう、12月なのだ。暦からの解放。それはとてもとても素敵なときだったように思う。瞬間と永遠を追い求める日々は…人生であったはずだった。もちろんこれは、今はやらなければいけないことだらけなので(僕が本当にやらなければいけないことなんてその中にはひとつもないように思えるが)頓挫しているだけであって、状況が落ち着いてさえくれれば、この先もこれまで以上の純度で追っていくはずのことなのだけれども。それでも…そのこと、つまりこれからのことを考えたときのこの言いようのない不安は一体なんなのか。楽とは言えないまでも、つつましく暮らすぶんには生活に困るほど稼ぎが少ないわけでもなく、五体満足でかつ先進国の医療が「異常なし」を告げている。端的にいえば、幸せなのだ。幸せなはずなのだ。それは分かっている。
 
 
▼空洞です。何度聞いても完璧な言葉だ。でも僕はこれからの日々をこの苦しみを引き受け続けながら生きていけるのだろうか。不安の源泉はそこにある気がする。空洞を抱えることではなく、わたし自身が空洞であることの寄る辺なさ。その寄る辺のなさにこそ、わたしが宿る。苦しみにこそ、僕がいる。甘美な煌めきがあってこそ、地獄の季節である。とにもかくにも、このままではいけない。