2017年1月6日の断片日記

▼寂しさ紛らすためなら誰でもいいはずなのに、あるいはそれに類するフィーリングが世の中にはある。それは言うまでもなく、誰でもいいのだろうか(いや、よくない)の表れでありそれが普遍かつ一般なのだという理解をしつつも、はて本当に誰でもいいなんてことがあるのだろうか、あるのかもしれない、あるのだろうなあという感じで生きてきた。招き入れた左ポケットの中で、冷え切ったその細い手にあわせるように、握り合った僕の手がどんどん温度を失っていくのを感じながら、寒いね、そうかな、と言って笑い合う。あのフィーリングはあるんだなとぼんやりと考える。しゃべりっぱなしのその声を、うんうんと聞き続ける。自分が何にアクセスしようとしているのかを慎重に見極めながら。
 
 
▼明日も早いからと、レンガのその家を後にする刹那、玄関先。ありがとねという言葉が、他の言葉と全く変わらぬ重さでそこに置かれたという事実に心が動かされる。僕もこんな風にその言葉が言えたらよかったのに。色とりどりの思いがいつも邪魔をして、僕のそれには必ず何かが絡まっていた。君が最後に口にした感謝の言葉には、わたし最近えらいからちゃんと言ってあげる、というおまけが付いたものだった。それを受けて思わず感謝をしかえしてしまう僕に君は「どういたしまして。えらいでしょ」とか言うのだった。まるで義賊の詐欺にでもあったかのような、妙な爽やかさがそこにあったのを覚えている。
 
 
▼こちらこそだよ、おやすみなさい。そういって扉を閉める。僕の数少ない紳士の引き出しの中のいくつかを開けずに過ごした。それらに手をかけるたびに、大事な何かが上書きされてしまう気がしたのだった。まだ、近すぎるのだ。バスの停留所何個分かの距離を歩きながら、「いつもの」が「いつかの」になることを考えた。部屋の位置だけ頭に入れながら、歩いたことのない方へ進む。浮浪者らしき人物とすれ違う。道中の光は2件のコンビニと数か所の電灯、そして信号機、いくつかのマンションの部屋から漏れる明かりだけだった。
 
 
▼今までだって、こんなことになってもおかしくないようなことはたくさんあったのに、そうはならなかったことの意味を考える。でもそれは考えても仕方のないことだ。僕はきっと、引き延ばされ、伸びたテープのようになったモラトリアムの中でいまだに夢を見続けているだけなのだ。