2017年1月10日の断片日記

▼ふとした(というにはあまりにも長く大きなものではあるのだが)きっかけで、古い友人と食事をして、ごくごく普通の会話をして、帰る。寒空の下、別れてひとりでとぼとぼと歩けば歩くほど、厭世的な気持ちになってくる。先の会話のせいだった。これはいけないと思って、コンビニに飛び込む。都市の生活。文明がもたらした永遠。これはもうどちらが病気か分からんね、とか思いながら、必要でもない水を1本買う。財布の中で150円を捜しながら、これは一体どの労働の対価としての150円なのだろうと考える。ぼんやりとしていたら、店員からの「ありがとうございました」。いつもはその前に「どうも」とか何とか言うはずなのに、ルーティンが崩れた。少しだけ動揺して「どういたしまして」なんて言いそうになる。奥歯で笑いをかみ殺す。こういうときに限ってマスクをしていないのだ。
 
 
▼会計を済ませ、(自分で出たとはいえ)外に放り出された僕にはあの気分がまだべったりと貼りついていた。帰りたくなかった。それでも行く場所もなかった。ため息を夜に投げ、肺が機能していることを可視化する。僕はまだ生きている、と自覚する。気づけば耳元で「愛のさざなみ」が流れていた。
 

 

この世に神様が本当にいるなら あなたに抱かれて 私は死にたい

  

あなたが私を きらいになったら 静かに静かに いなくなってほしい

  

どんなに遠くに 離れていたって あなたのふるさとは 私ひとりなの

  
このヴァースの部分の並びは本当に素晴らしいと思う。さざなみ、よい言葉だ。(カーネーションのカバーも秀逸よ)
 
 
▼部屋に戻る。20代のはじめに読みかけて投げ出したものにたまたま触れる。そこには今の僕が確かにいて、こうやって回収されて、受け取りなおされていくんだなと思う。捨てられないものばかり増えていくのも、困ったものだけれども。ね。