2017年5月29日の断片日記

▼職場の最寄り駅前の大通りを風に吹かれながら歩いていく。耳元で角舘健悟が「ああ こんなはずじゃなかったのさ / 僕は騙されてなんかいやしない / 見違えるほど時は満ちてく」なんて歌っているもんだから、どうしようもなくなってしまって思わず立ち止まる。最近、傷つけてしまった人たちのことを思い出してばかりだ。若さを浪費してしまったなとも思う。嫌いな季節の足音が聞こえてきて、いやだいやだと無理に上着を着続けてはいるものの、そのことが逆にあの季節の輪郭を際立たせているようで腹立たしい。夜風が気持ちいいのはこの時期で、夏のそれは不快さをぬぐうほどの魅力はないよなと思う。季節のことを考えるたびに、春は訪れるもので、夏は行ってしまうもの。秋は見つけるもの、そして冬は迎え入れるもの。ということを考える。去年は秋のことは言えなかったんだよな、たしか。秋は見つけるものだと、いよいよ気づいたのだよ。今日。
 
 
▼したいこともできずにしたくないことばかりしているから、毎日辛いなと感じている折にそっとあの人の優しさが寄り添ってきて、この人だけはいまだに僕の「何か」を見てくれているのだなと感じる。居場所がなくなったわけではないんだ、ということは頭では分かっているのだけれども優れないね。後悔以外の感情を携えながら思い出すということをしたいなと思っている。そうでないのなら、思い出さなくたっていいと感じるほどには。
 
 
▼デジタルデータの写真の数え方は「枚」でいいのだろうか。手持ちの辞書で「枚」を調べると「薄くて平たいものを数える」とあるので、これはいよいよ怪しいぞと思い始める。ネットの大海原を漂うと同じ疑問を持つ人もいたようだが、納得のいく回答は得られていなかった。印刷の余地があるから「枚」でいいのよという記述も見かけるのだが、それは印刷して初めて「枚」と数えるべきでその前段階だと別の数え方を用いるのが適切なのではないかと思ってしまう。でも「枚」と数えるものでも、作品になると「点」と数えることもあるから、そのもののどの機能に着目するかで数え方が変わってくるのならば、印刷可能であるからというのも一応「枚」と数える根拠にはなるのか?そんなこんなでさっぱりまとまらないまま、調べるのを続けていたら「番長皿屋敷」にたどり着いてしまってなんか脱力してしまったのでやめた。