2017年6月11日のHOW TO GO

▼そうか、今は「HOW TO GO」なんだなと思ったのは、ずっと僕が誰かを探していることを街が知らんぷりしてくれていることにほっとしている自分に気がついたその時だった。でも少しほっとして…「ばらの花」のミニマルなリフが心音と重なっていく。いろんなものとすれ違ったりはなればなれになったりすることを思う。「HOW TO GO」そう、ここからの歩き方を今、問われている。誰に。自分自身に。
 
 
▼オリジナルメンバーである森の脱退後にリリースされた「HOW TO GO」は、バンドのステートメントであるのだなということはあるにしても、たとえば先の「ばらの花」にせよ「ハローもグッバイもサンキューも言わなくなって こんなにもすれ違ってそれぞれ歩いていく」と歌った「ワンダーフォーゲル」にせよ地続きの風景がそこにはあって、それは後の「Jubilee」での「なんで僕は戻らないんだろう」や「琥珀色の街、上海蟹の朝」で通底している風景からもよく分かる。1stのオープナー「ランチ」でさえも満たされたものを装いながらそこには断絶の可能性が横たわっている。「未来の事を話したい いつでも愛ある明日を信じていたい 珈琲は冷めてしまったよ」飽くことなく語り明かす幸福な2人ととらえるか、お互い気持ちは決まっているのに会話として落とし所がない2人ととらえるか。どの時期の作品をいつ聴きかえしてみてもまったく強度を失わないのは音作り以外にも理由があるのだ。『アンテナ』がいちばんのフェイバリットで、それはクリストファーの太鼓が大好きなのと、当時の映像を見るたびに、この4人でないと出せない音、この時期でないと鳴らない音といった魔法めいたものがそこに宿っている気がするからなのだけれども、実はあの頃から(あるいはその前から)ずっとどう歩いていくのかということを問われ続けていたことにどこかで気づかされていたせいもあるのではないかと今になって思う。
 
 
▼「僕達は毎日守れない約束ばかりして朝になる」約束は最小単位の生きる意味、とレジュメしたのは10代の頃の自分で。今なら約束ということばではなくて契約と表現するだろうけれど、それでも「約束」の方が優しさと怯えがそこに同居していて良いなとも思う。守れないのを分かっていても約束をし続けること。生きるためには必要なことでしょ?そうでなければ、また明日、だなんて。その後3.11を経て「everybody feels the same」と歌っていたときも、それは絆とかそういうしょうもない圧力とは無縁で、あの時を境に何かが変わってしまったのは皆一緒で…ということ、それ以上でもそれ以下でもないことが心底嬉しかった。僕があの時「いいから黙って自分のために祈れよ」みたいなことを言っていたのも同じことだと思う。すれ違いながら、はなればなれになりながらも、「一緒に」歩いていく。嗚呼、否定からのそれでも。
 
 
▼「いつかは想像を超える日が待っているのだろう 毎日は過ぎてく でも僕は君の味方だよ」僕も重ねてそうつぶやいてみる。そのことによって守ろうとしているものの中で僕自身が胎児のような格好で小さく震えている感覚。それはそれとして引き受けたうえでの、ハウ・トゥ・ゴー。どうしたって、これからも行くしかないのだ。過去にしか未来はないにしても。
 

くるり - HOW TO GO