2017年7月18日の断片日記

▼雨が降るよという予報を見てから眠りについて、朝に窓から差し込む乱暴な陽光。そんなはずでは、と思いながらもその明るい空に感謝をしながら身じたく。少しの哀しさでシャツに袖を通し、多くの無感動でカバンを肩にかける。目下の哀しみの出所である懸案をポケットにしまい、人生を覆う憂鬱さの源泉を闇に閉じ込めたら、時計を身に付け本を手にとり部屋を出ていく。
 
 
▼目を開けた太陽にじりじりと苦しめられながら、道行くちびっこと犬と女の子たちが僕の何かを中和していく。電車内のクーラーに命を救われながら遠くの方に雨雲を見る。まああんな躁病みたいな空模様、不安定を絵にかいたようなものだもんねと勝手に納得して深くうなずく。
 
 
▼雨が昼間の熱をさらって、夜風が気持ちいい帰り道。乗り換えの合間に文字通り手を洗うためだけにお手洗いに。なんとなく顔をあげると鏡に自分の顔が映っていて、なんか久しぶりに鏡見たなあという気持ちになった。前髪に雨が降った証拠を確認しながら、まあどうでもいいやとか思いながら手を丁寧にふく。あの「ぶおわー」って風でうやむやにする機械があまり好きではなく、ハンカチで静かにぽんぽん、とするのが好みなのだった。
 
 
▼最寄駅に着くころ、耳元で大森靖子が「このいのちの使い方を君に愛されたい」と歌っていてけだし名言だなと。僕はアイドル界隈にはからっきしで興味はまったくないのだけれども、それでもあの人たちはみんなすごいなと最近感じるようになっている。『IDOL SONG』での多種多様な「はーい」という声にはイミテーションガールとしての矜持というか覚悟のようなものが宿っている。そして倒錯した実存ゆえのあふれ出る「肯定」とその背後に漂う決して一筋縄ではいかなかったであろう決断までのあれこれがそこにはあって、それを音とともに浴びるたびに、ああなんてことだ!と思う。


大森靖子「イミテーションガール」MusicClip
 
この曲もその流れでフェイバリットになった曲で(というか『洗脳』自体が『TOKYO BLACK HOLE』を経てようやく「あ!」となったのだが)ミスiDのコたちがこれを歌うという構図がもうサイコーなのだけれども、それは決して揶揄とかではなく、イミテーションでありそれに自覚的だからこそそれを見るものを遠いところまで連れて行ってくれるという話なのだから、実に感動的ですらある。彼女の楽曲を女の子になって聴いてみたいという意見には本当に首肯するばかりだが、それは何も性別に限った話ではなく、僕がまったく別の人生を送っていた場合どう聞こえていたのだろうかということにも興味があるのだった。
 
 
▼そしてMVでも別格の存在感を放つのはやはり玉城嬢だ。彼女のことはトーキョー資本に本格的に発見される前からたまに触れてきた。思想を着ているモデルさんは本当に素晴らしいとかなんとか言って。それは嘘偽りなくその通りなのだけれども、僕は彼女を通して(あるいはなんだってそうだろう)他の誰かのことも見ているのだった。時々暴力的なほどに似ているときがあって、もうどうしようもなくなってしまう。僕はその人のいのちの使い方を愛していたし、一方で僕のこのいのちの使い方を愛してほしかった。
 
 
▼いつかの日に女の子がツイキャスをしていた交差点で今度は別れを惜しんでハグをする子達がいた。僕はなんだか泣きそうになって、あわてて読んでいた本に視線を戻した。本を読みながら帰ると部屋まで倍以上の時間がかかる。赤信号が嬉しい。そういうふうに、できている。