2017年8月2日の断片日記

▼「夜が始まる」と、そう思える人生を歩んできたかった。振り返ってみればいつだって夜はやってきては終わってしまうものだった。朝もそうかもしれない。それが始まると思えるのかやってくると感じてしまうのか、その違いは大きい。もちろん、僕にとってノスタルジーは中指を立てる対象であるのと同じように、過去のことに対してああすればよかったなどと思ってみたところで、仮にもう一度あのころに戻れたとして同じような選択をするはずなのだった。果たして人間が同じであるならば。それでも過去にしか未来はないからこそ、そんなことをぼんやりと考えてしまうこともあるのだった。
 
 

短歌では、小さいものを詠うのはやさしいが、大きいものを詠うのはむずかしいとされる。たとえば、海に浮かぶ小舟を詠うことはできるが、ただ広い海だけを詠うことはむずかしい。

生と死が創るもの (ちくま文庫)

生と死が創るもの (ちくま文庫)

 
短歌に限らず、僕はどうしても自然や風景というものを大きく(≒ただそのまま)描写するのが昔から苦手で、それは用いるのが言葉であれ絵であれそうなのであった。読んだり見たりするのもそうで、小説や物語が上手に読めないのはそういう自然描写がスムーズに自分の中に入ってこないからであったし、絵画にしても好きになる絵は人間(あるいはそれに類するもの)が描かれているものがほとんど(『雨、蒸気、速度-グレート・ウェスタン鉄道』などは例外なのだ)だった。「見ればそうなる」ということから見る主体を切り離し、そこにただあるということ、そこから立ち上がってくるものを受容する能力が欠けていると感じることが多い。わたしのせかいに、あまりに長くいすぎたということなのだろうか。
 
 
柳澤桂子はこの著書『生と死が創るもの』の中で土屋文明について

 文明は人間の神経系の働きに反する方法で、なおかつ人の心に訴えることに成功した数少ない歌人のように思える。成功の陰には、徹底した自然の写生詠の積み重ねがあったのであろう。また、何がひとを動かすかを直観的に悟る能力ももっていたと思われる。
 彼は、それまでの自然観照を主とする短歌の世界から離れて、人間の生活を通して人間そのものを詠おうとした。そこには、生と死、人間であることの寂しさ、孤独が通奏低音として流れている。

と記している。現代において、つまり「わたしのせかい」が「わたしのせかい」だけのものではないことが明らかになってしまった時代の中で、純な自然観照というものがどれだけ可能で、仮にそれを「ただあるもの」として提示できたときに、あるということそれ自体を慈しみ受け取れる人間がどれほどいるのだろうか。


▼それを可能にする人(たち)は、いるところにはいるのだろう。だから自らの欠落を棚に上げて何かを批判したり全てを時代のせいにするつもりなんて毛頭ない。ただ単に、僕がそれを不得手にしている以上、それを克服するためにはどのような方法があるのだろうと考えているところだという話で。そんなの放っておいて好きなように見ればそうなるを行けばよい、というのも一理ある。だが、たびたび「あおいさんって変わってますよね」というような評価を(決して否定的な文脈ではないにしてもだ)もらうたびに、その自然観照そのものあるいはそれに似た力の欠損がその評価の出処なのではと、あまり気持ちの良い感じがしないのであった。


▼その根底には「称揚された"個性"なんかクソくらえ」だと思っていた20歳そこそこの僕がまだいるのだと思う。この言葉とは本当に食い合わせが悪い。もちろん個性は尊重されるべきだ。その意見には全く異を唱えるつもりはない。僕も殺されてきた側の人間だ。だが、いやだからこそ、一時期病的なまでにもてはやされた「個性」信仰のせいで窒息していったあれこれを見て感じてきた身としては、「他と違っている」ということがあえて言及される場面においては、それが好意的な評価であれ何であれ嫌悪(そしてそれはしばしば自己にも向けられる)の念を抱いてしまう。誰かが誰かと違うことなんてあえて言葉に出すまでもなく当たり前なのだ。わざわざそれが表に出てくるときというのは、きっとそれは何らかの不足を指摘する思いのすぐそばにあるのではないか。もし仮にそうならば、「個性」などといった変質してしまった言葉で包んで曖昧な態度を示すのではなく、その不足を克服する方法を教えてくれよと思ってしまう。そのままでいい、だけでは解決できない現実があるのだ。(現実の方を改変すべきではあるのだが、それと自己の不足を補おうとする意志を放棄するのはまた別の話。苦しみは他者との比較だけからやってくるのではないのだ)
 
 
▼神様は誰も見ていないところを見ている。きっとその眼はただ見ているのだと思う。だからこそそれらはただそこにあることができるのだ。だとすると、時代が進むにつれて人は神様の眼を少しずつ失い、自らを自らの神として宿すようになったのか?僕なりに神様の死を言うならばそういうことになるのかもしれない。
 

▼そうなると、自分はどうやら人間は神様を分有している(いた)存在である、人類が神様を生み出した理由はそこにあるのではないかと考えているようだというところに行きついて、いま、とても驚いている。