重ねられた生活 20170805~0811

0805(Sat)

体調不良。仕事。
 
 

0806(Sun)

体調不良。仕事。
 
 

0807(Mon)

体調不良。休日。睡眠と睡眠の間に何かをしていたはずなのだけれども、ほとんど覚えていない。寝ていた記憶、というのは変な話なのだが、でも確かにあるのだ、寝ていた記憶が。
 
 

0808(Tue)

高熱が出ているとき特有の視界のゆがみ方。思えば久しく体温計というものを使っていない。だいたいの身体の感覚で、ああ今何度くらいなんだろうなァというのが分かる。デジタルで何度という情報が計測されたとて、僕の1日の何かが変わるわけでなし、身体が動くなら役目を果たすべし、な世の中である。ふむ。
 
それでもこれだけ外が暑いってのに、汗かきの僕がほとんど汗をかかないのだからこれはいよいよよくないアレですねと思って仕事を早めに切り上げ(それでも予定より大幅に居残っていた。クソッタレ!)、空中にキャンプを張りながら帰宅。トーキョーの記号性を愛している。僕はいつでも、どこでも、よそ者だった。よそ者がよそ者としての居場所をつくるのを、見て見ぬふりしてくれるのがトーキョーだ。
 
 

0809(Wed)

熱が相変わらず下がらない。仕事を終えて帰宅して、勉強をする力も残っていないからとcero特集のユリイカを読む。

荒内 『Obscure Ride』でリズムを意識して更新しましたが、そこに乗っているコードやメロディが邦楽の範疇を出ていないなというのはずっとモヤッとする部分として抱えていたので、それをアップデートしたいなと。言ってしまえばリズムが変わっても歌謡曲的なコード進行なんですよね。だからもっとジャズ的なコード感を入れられないかなと思っていて、なおかつそうしたコード進行のうえに髙城くんの日本語詞が乗っていたらさらに特別なものができそうだなと思ってます。
 
髙城 そういう曲の構造って、ことばにも影響が出てくるんですよね。あらぴーの曲に歌詞をつけるのを手伝ったりするときとかにもよく思うんですけど、歌謡曲的な構造を持っていない曲には、男女が出会ってどうこうみたいないわゆる歌謡曲的な歌詞は到底乗らなくて、すごく不思議だなと感じています。そうすると必然的に描くものが「人」じゃなくなって、モチーフが水だったり、自然だったり、そういうものに変わっていく。これまで書いてきた風景描写に近いものではあるんだけど、たとえば「三月の水」(アントニオ・カルロス・ジョビン)の歌詞のような、もっと現代詩的なものになっていく。

 
語り部的意匠が濃くなってきていたことと、小沢健二を通過して(もともと1stから鳴っていた)並行世界的なものへの言及が増えていたことは感じていたけれど、それがコードなどとも関係していたのですねと。髙城さんはエキゾシズムについて「見慣れたものを見慣れない目線で見る、あるいはその逆も然り、そういう視線」のことだと言っている。人へのフォーカスから離れてそれを浮かび上がらせるとき、見ているのは「誰」なのだろう、と考える。それはつまり「人」を通して並行世界を描いたことと、通底しているのではないだろうか。
 
それにしてもざっとページに風を通しただけなのだが、この特集は中身が充実していそうだ。彼らが鳴らしているのは(東京在住であるにもかかわらず)東京ではなくトーキョーであることや、シティポップにくくられながらもそれを超越していること(確かにその磁場はシティのように見えるのに)などの謎がするすると紐解けるようなそんな気がしている。大事に読もう。

 
 

0810(Thu)

休日。だがこの身体ではどこへも行けない。なので久しぶりにNetflixの話を。随分前に『ベター・コール・ソウル』はS3まで見終えており、また『ハウス・オブ・カード』に戻ってきている。それから2話でとまっていた『マスター・オブ・ゼロ』を再開。3話はFather John Mistyのライヴにイケてる女の子を誘ったらそいつがとんでもねえやつで、かわりに現場で再会した女の子といい感じになったのに、今度は相手が土壇場で「元彼とやり直すことになって…」とか言って去っていくっていうまあそういう感じの話なんだけど、Father John Mistyていうのがもうホント最高だなと思うのだ。こういうのがポンと出てくるあたりにポップがポップとして機能する、大国の懐の深さを感じる。

「Father John Mistyなら観客はほとんど白人だ。人種間争いが起こったときのために、アジア男を連れてけって」
「ライヴで人種間争いが起こったら、その時点でもう終わってる」

なんてジョークをかましつつ、次のエピソードが「インド人・オン・TV」で、いわゆるマイノリティが直面するステレオタイプの物語(を自虐的に描くもの)で、こういうのを目の当たりにすると、僕が住むこの国にポップはあるか?と考えてしまう。制作も務める主演のアジズ・アンサリをウディ・アレンと重ねる向きもあるようだが、なるほどなんかわかる気がする。
 
 

0811(Fri)

早起きをして、テキストをしたためる。自分のためではあるのだが、ある企画を思いつきそれについての原稿を書いているのだ。原稿だなんて!だが、気分は重要だ。久しぶりに楽しいものを書いている。でもこれはたぶん自分が楽しいだけで、それで人を楽しませることができる人たちだけが、それで金を稼ぐ権利があるのだろう。
 
仕事を片づけて夕刻、渋谷へ。向かう直前までいくつかの目的地候補と迷っていた。

ハチ公口から出る。動き、声、警官。外国人、カメラ、ぴかぴかネオン、真っ黒な空。渋谷は来るたびに二度と来るもんか、と思ってしまう。周りを見渡してみて、90年代リヴァイヴァルは確かにありそうだったけど、局地的なことなのかなとも思った。原宿の方へ向かえばまた違うんだろうか。それでも90年代って渋谷、なんじゃないのかしらねとか思いながら『ヘッド博士の世界塔』を聴いていた。

まァそんなこと言っていてもその実90年代なんてものは、僕自身が思春期を自覚する頃には終わりを迎えていたわけで、その時代の特異性のようなものは比較する対象を持ったときに初めて立ち上がってくるわけだから、僕が何を言えるだろうかいや言えない、という話ではあるんだけどね。
 
で、『ベルギー奇想の系譜』@Bunkamura ザ・ミュージアム。
fantastic-art-belgium2017.jp
奇想云々はキャッチーななにかだろうと踏んでいたので、その辺はわきに。ブリューゲルも何点か出ているとのことだったので、それをメインに考えていた。というのも、昨日たまたまFather John Mistyの名前を耳にした影響でFleet Foxesのことを思い出していて、そうなると『ネーデルラントの諺』をジャケットにあしらったあの1stじゃん?というようなことを考えていたから。でも結果的に強く印象に残ったのは別のところだった。

ヴァレリウス・ド・サードレールの『フランドルの雪』これが大変に素晴らしかった。ブリューゲルが描いた雪景色を視野に入れながらも、カンバスの大部分が暗い空で覆われ、そして(これがブリューゲルのそれとの1番の違いなのだろう)いっさいの人間の不在。そのことで人智を超えた大きいものを表現している、というようなキャプションがついていた。ほぼ同じようなことを感じていた。展示を見進めるうちに、これまでは人間あるいはそれに類するものが描かれている絵画の方が好みであったはずなのに、どうやら今の僕はその人間の「不在」というものにピントがあっているようだということに気が付いた。フェルナン・クノップフの『ブリュージュにて、聖ヨハネ施療院』もそうだし、ウィリアム・ドグーヴ・ド・ヌンクの『黒鳥』なんかに惹かれたのも、確かに人は不在なのに「誰か」がそれを見ている、だからそうなっているというふうに思えてしかたがなかったからだ。フェリシアン・ロップスの『踊る死神』を観れたのも大きかった。圧巻だった。不勉強だったがボードレール周辺の人らしい。主題も含めてなるほどと思った。
 
とまあ楽しんだのだが、本丸はこっちだった。
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www.parco-art.com
OMOIDE IN MY HEAD状態の人々であふれていた。控えめに言って最高のKIMOCHIである。間違いなくシブヤは炎上していた。「向井秀徳展」という文字列だけで半日くらいゲラゲラしたのちに3日くらいニヤニヤしていたのだけれども、やはりどうしたって思想や美学のある表現は抜群にかっこいいのだ。でもThis is 向井秀徳グッズの乱打は流石にひざに来た。
 
井の頭通りを歩きながら結局僕はいろいろなものに間に合わなかったのだなとの思いを新たにしていた。アーカイブ化されフラットにアクセスできるようになった時代の恩恵にあずかりながらも、そのことによってまた同時に殺されたりもするのだろう。動き、声、警官。外国人、カメラ、ぴかぴかネオン、真っ黒な空。そして皆に見て見ぬ振りされている足元。この街に渦巻いているエネルギーの残り香は、確かに僕に「二度と来るか」と思わせるほどには強く漂っているのだった。曇天にうんざりの今週はここまで。