サニーデイ・サービスがそばで鳴っていた僕の10年とすこし disc1

 
※これを書き始めたのは8月の初めなのだ
 
サニーデイ・サービス19年ぶりの日比谷野外音楽堂でのライブがある。その先にはこれまでの活動を振り返る書籍も出るとのことだ。そのどちらをも楽しみに待っているのだが、この辺りでサニーデイ・サービスとの思い出を作品ごとに振り返っておきたいと思った。先述した2つのことはきっと僕にまた決して小さくはない影響を与えて、それまでを(場合によっては)都合よく書き換えてしまう可能性がある。今しか書けないものを、今やっと書けるようになったのだから、記しておくべきだろう。それはとてもとても個人的なことなのだけれども、それでもそう思ったのだから、それがすべてだ。(で、結局ライブにも本のリリースにも間にあわなかった。都合よく書き換えているのかどうかはもう自分にはわからないし、まあどうでもいいよね。本は買ったけどもったいなくてまだ読んでいないから、一連のものを書き終えたら、大事に読んでいきたい)
 
彼らとの出会いは10代の終わりで、なぜ彼らの音源を手に取ったのか、そのきっかけはもう覚えてはいない。それでも、とても自然に、すでに解散していた彼らの音源へ順に触れていくこととなったのだった。それでは自分のために、盛大な自分語りをはじめていこう。
 
 

『若者たち』(1995)

若者たち

若者たち

 

出会うまで

 
▼出会いが10代の終わりでと言っておきながらなんだが、僕に10代はなかった。事あるごとにそう言っているが、まあとにかくそう感じているのだからそうなのだ。当時僕は自分の「なんでもなさ」をどうにかして受け入れようとしながら、「何者かであれ、なぜなら君には可能性とゆるぎない個性があるのだから」と脅かしてくる社会との間で悶々としていた。臆病さと攻撃性とが僕を両側から引っ張っていて、常に震えながらイライラしていた。それでも今思えば、そこに確かに「社会」があって―つまりある種健全なモラトリアムがそこにあってという意味だが―よかったと言えるのだろう。社会性を欠いたまま社会で生きるのは困難を極めたが、それでも社会で生きようと「役割」という概念を手にいれてからは、わりとうまくやりおおせたと思っている。
 
 
▼海沿いの地方都市。いや、都市と呼ぶにはあまりに小さく閉鎖的な空間。日本中のあちこちにある、平凡な港町だ。海は広く、自由に思えた。それでもその海はまた別の血縁につながっていて、いつからか海に入ることも、ボートに乗ることも、釣りもしなくなって、砂浜に出かけていくこともなくなった。その後15のころから自由を求めてもがいて、周りに反抗することやレールを外れていくことだけでそれを手にしたかのような気持ちになって過ごしていた。
 
 
▼大きな生き物たちが家の中を闊歩している、旅行から帰って浴槽をのぞけば何かが死んでいる、そんな掘立小屋みたいな借家でスタートした僕ら家族の生活は、貧困というほどのものではなかった(共働く必要もなかったし、借金もなかった)のだが、端的に言って文化資本は脆弱そのものだった。引っ越した先も夜に誰もいないはずの階下を誰かが走り回る音が聞こえたり、その階下から誰かが上がってきては2階の窓から近くの寺まで抜けて行ったり(眠る前、寺からもらった飴を窓際に置いておくと、一晩で数が変わるのだ!)、コンセントからプラグを抜いたテレビが夜中に勝手に着いては消えたりするような家だった。…まあいいやその話は。そんなこんなで、映画や書籍というものはこの世には存在しないかのようだった。だからなのか、ラジオが大好きだった。インターネットがなかったころ、ラジオだけがここではないどこかを感じられるものだった。
 
 
▼父からロールモデルとして何かを享受したこともなかった。そもそも仕事の特性上ほとんど家にはいなかったせいもあるのだろうが、昔から父の存在というのがどうにも希薄だった。加えて13の頃に「口のきき方に気をつけろ」と殴られて以来、力で彼に抵抗しようという気はまったく失せてしまった。以降、その存在を無意識のうちに排除しようとしていたところもあるのだろう。その一方で16の頃に、彼なしでは「生きる」力が僕にはないということをまざまざと見せつけられる事態に陥り、謝辞とともに施しを受け入れた僕にとって、「立ちはだかるもの」としての父性はもはや消失したに等しかった。そう、そのときからは今度は意識的に父を「わたしのせかい」から消すことにしたのだった。だから学生の頃、睨みつける対象としての社会、あるいは親殺しの代替として機能する社会がそこにあったことがどれほどの福音であったことか。社会や時代に怒りながら暮らしていたのは若さだけが理由ではなく、その福音に対して執着していることの裏返しであったのだろうと今では理解することができる。
 

何ものでもないことを謳歌する

フリッパーズフォロワーとしてそのキャリアをスタートしたはずの彼らがこの1stでははっぴいえんどをリファレンスにするという方向転換を見せる。アニエス・ベーからネルシャツとブーツカットへ…なんて話はあとから知ったことであって、サニーデイ・サービスの記念すべき1stアルバムはリリースから10年近い年月を経たある秋に、「なんでもなさ」を引っ提げては当たり前のように僕の傍らにやってきた。(そもそもはっぴいえんどすら聞いたことがなかった。まともな書店もCDショップもない地方の港町の少年にとって、インターネットがなかったころの世界は洞窟の中にいるのと同じだったのだ、無理もない)当時僕は親元を離れて、地方都市で一人暮らしを始めたばかりの大学生だった。
 

サニーデイ・サービス「いつもだれかに」
 
  
▼そのサウンドを聞いたとき、2000年ごろからまじめな(?)音楽リスナーとして歩み始めたその耳であるにも関わらず、不思議と古さのようなものを感じなかったことを覚えている。その妙ちくりんな感覚の正体をずっとつかみあぐねていたのだけれども、きっと「なんでもなさ」というのが当時の僕にとっては切実な問題であり、彼らがその「なんでもなさ」を歌い上げていた以上、それはどうしようもなく「今」の音であり、かつサウンドの参照点が70年代であることに起因する「ここではない、どこか」の感覚が、きっと70年代ではなく未来へと僕を連れて行ってくれたからなのだろう。そういう意味では、この時点で心のどこかでは過去にしか未来がないことに気付いていたといえるのかもしれない。まあ「稲穂が揺れる~」とか歌ってる後ろでなってるのが、サイケサウンドなんだからそれだけでも未来だったんだけど。いずれにしてもその「なんでもなさ」を当たり前のように鳴らしたその姿勢にすっかり魅了されてしまったのだった。



▼「街へ出ようよ」というのは、街へ出ないからこそそう言うわけで。もちろん本当に街へ出たっていい。つまりは、僕はあの頃何をしてもよかったし、何もしなくても良かった。それが嬉しくて、同時にとても辛かった。最後に収録されているタイトルトラックは、それでもアニエス・ベーを着たままの、クラスタという言葉を忌み嫌いながらもトライヴにはなり切れないという宙ぶらりんな僕のありようを認めてくれていて、そしてその数年後には、10代がなかった僕にも青春はあったのだと気づかせてくれたのだった。今でもこれからも、大切な曲だ。

きみの白い腕はまるで 青いたたみのようだね
はりついてしまった淋しさが毎晩 寂寥の彼方へと 溶けだしていく
広がって来る不安におそわれ 「明日になれば」「朝が来れば」とか 
昨日も そう思った

ぼくらはと言えば 遠くを眺めていた
陽だまりに座り 若さをもてあそび
ずっと泣いていた ずっと泣いていた
 
(「若者たち」)

 
 
▼クレジットには、インスピレーションとしてタイトルにもなった永島慎二の『若者たち』や、つげ義春の『ねじ式』が挙げられていて、僕は何が何だかわからないままにそれがとても格好いいことのように思えていた。ゴダールに出会った季節だ。リファレンスの多さはすなわち世界の広さであり、消極的自由の中に放り込まれて目まいばかりしていた当時の僕には、とても刺激的なことだったのだ。