サニーデイ・サービスがそばで鳴っていた僕の10年とすこし disc9

▼現時点での彼らのキャリアのうち「優しい」と形容できる作品があるとするならば、この1枚をおいて他にはないかもしれない。曽我部さんのソロ作などとの壁が融解したかのような曲もあることも含めて、 そういう意味では異質な作品といえるかもしれない。その一方で、果たして「サニーデイ・サービスらしい」というパブリック・イメージ通りの曲が並ぶのもこの作品なので面白いところである。
 

『Sunny』(2014)

Sunny

Sunny

 

日常へ。

▼2013年、14年ごろの自分は、年齢の節目が近づいていたこともあって何となくあせり始めていた。君とのおかしな関係も、何度目かの別れと出会いの折に、いままでは感じなかったような漠然とした不安を抱いていた。それでもちょうどこの頃がその関係に甘美な何かを感じとっているピークの季節だったのも確かで、だから僕は「道化」というモチーフをよく用い、君の実在性に疑義を投げかけたりしていた。そこから少しずつ、人生の領分を生活が侵食し始めて、君との関係だけではなく自らの歩みについても分裂気味な想いを抱かざるをえない状況に陥っていたような気がする。
 

仕事終わりに食事をして、終電へと送り届ける。改札の前で彼女は「それじゃあ、先に行ってるね」と言った。確かにそう言ったのだ。僕は感動のあまり言葉もなかった。それじゃあ、先に、行ってるね。先に、先に、先に。忙しさのあまり手放しかけていた敗北主義や「それでも」が熱を取り戻していくのが分かった。そう、「変わり続ける君を変わらず見ていたいよ」の季節。
僕らは次に会う日を約束して別れた。また他人に戻るんだなということを慎重に確認しながら。こうして別れたりつきあったりを繰り返している限り、永遠はないということを何度も何度も受け取り直すことができる。そのうちに、必ずや全ての時系列はフラットになり、瞬間が見えてくる。(2013.01.07)

 

他者とかかわっていく上で重要な認識の一つに時間についての捉え方、捕まえ方があるだろう。我々が共有できる(と信じている)のは場そのものであって、各々が時間に対して抱いている思いや、あるいは見ている景色はそれぞれ別のものである。ゆえに、たとえば流れや速度のような簡便なものを一つ取り上げたとしても(簡便であるからかもしれない)その強大なうねりのまえに、いったい目の前の人間と何を成せるのかと途方に暮れてしまう。だがその途方に暮れるという前提に立った上で、それでもなんとかせねばと立ち向かうところに他者と交わることの何らかの意味性が生まれるのであって、その認識の有無は本当に、大きい。あまりにも、大きすぎる。少なくとも僕にとっては大問題だ。つまりは、焦燥感にさいなまれた青年と繰り返しに苛立つ彼女との間の壁を僕らはいかにして乗り越えていくことができるのだろうということである。(2013.02.21)

 

君は僕を媒介とすることでなんとか関係修復の糸口を見出すし、あのこは僕を乱暴に扱うことでようやく立ち上がる。あの人はそんな僕を労わるそぶりを見せながら、隙を見せる。僕はそこに優しい言葉を選択して添える。心は灰色。恋は桃色。だが、僕がいなければいないで彼女たちはよくやるだろう。それでこそ道化だ。わずかばかりの僕と関係する人や、僕の目の前で起きている出来事は、すべては実在しないもので、それは世界認識の問題であり本当は僕の内側にあることだ。つまりはインナーキングダム。外の出来事がどうであろうと、本来的には知ったこっちゃない。僕が死ねば僕の世界は終わる(2013.12.01)

 

僕の最後の日々に、君は何を思うか。君は僕に理由をくれるが、君自身を僕は説明することができない。わたしのせかいにおける君は君自身ではない。君自身にたどりつく過程において、わたしのせかいそのものを見つめるというアプローチで獲得された「わたしのせかいにおける君が君自身ではない」という感覚は、君自身が何でないかのひとつの証明であるが、何でないかを証明するためには君自身が何であるかをどこかで理解している必要がある。思索し、内部と対話すること、過去に死んでいった自分の墓をあらすこと、受け取り直すこと、能動的な愛…それらすべての中に答はあるのだろう。僕は知っているはずだ。君自身が何であるかを。(2014.8.26)

 
だからこそ、この作品で描かれていた日常のあり方に心はなだめられたのである。

さみしくはないのさ 悲しくはないのさ ただ海の青さに ゆられていたいだけ
 
アビーロードごっこ」

  

Sunny Day Service - 愛し合い 感じ合い 眠り合う【official video】
 
 
そして生活の手前とその先にある日常へと回帰する中で「見る」ということへの憧憬は、徐々にオブセッションめいたものへと姿を変えていくことになる。ルドンの『わたし自身に』を読んだのもこのあたりだ。
 
 

夏は行ってしまうもの

▼そんな日常への回帰の中で、四季との付き合い方を考えていた。春は訪れるもので、夏は行ってしまうもの。秋は見つけるもので、冬は迎え入れるもの。そんなふうに今は考えるわけだけれども、その出発点になったのが<夏は行ってしまうもの>ということであった。その感覚を教えてくれたのは『愛と笑いの夜』に収録されていた「海岸行き」なのだけれども、その感覚を言語化してくれたのは本作に収録されている「夏は行ってしまった」だろう。
 

Sunny Day Service - 夏は行ってしまった【official video】
 
 

『PINK』(2011)

PINK

PINK

 
▼ところでこの分裂気味な2014年ごろの状況を語るに避けて通れないのは、やはりあの震災で。disc8の項でも書いたとおり震災は自分を宙ぶらりんな位置においてしまった出来事でもあって、そのことによる葛藤が君との関係以外で自らを引き裂いた一因になっているのは疑いようのないことだった。その心を落ち着かせた楽曲の1つに曽我部さんのソロ作『PINK』に収録されている「ねぇ、外は春だよ。」があった。そしてその『PINK』で鳴っていた「ふつうの女の子」は普通ではない君との日々の中で優しく響いていたし、「一週間分の愛」はその後の日常への回帰へとつながる音だったのは間違いなかった。そのことをここに記しておきたい。

『超越的漫画』(2013)

超越的漫画

超越的漫画

 

分裂する自我をつなぎとめるもの

ある種の人間にとって愛は病そのものである。そしてその愛に殉じるとき、愛は救いであり、恍惚である。だがそれは彼が病人であり、狂人であることの証でもある。愛は人を救い、愛は人を殺す。(2013.05.16)

 
▼この頃は偏執的だったように思えるし、「狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。」というのはG.K.チェスタトンの言葉だが、ある意味では、君との関係に理性で整合性を持たせようと何かにとりつかれたかのように過ごした日々は、確かにここでいう狂人のような感じだった。そこをぶちぬいて僕の社会性を担保してくれたのが2013年の「バカばっかり」だった。これがあったから、その後の『Sunny』を日常として受け取れた。
 

曽我部恵一 - バカばっかり【official video】
 
▼いずれにしてもこの頃必要だったのはきっと日常の言葉づかいであり、「日々が続いていく」という確信だったのかもしれない。だからこそ、彼らの音楽が素朴な言葉で鳴っていたという事実はとても重要なことだった。
 

「お帰り。」「…どうして、お帰りなの?」(2014.9.17)

一方で君はこんなにも簡単に僕を瞬間の切れ端へと導いていくのだった。
 

Sunny Day Service - One Day【official video】
 
 
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