2017年10月9日の断片日記

▼学生の頃に過ごした街に来た。
 
 
▼最初どういうつもりだったかというと、件の10年の記事が次で終わるから、じゃあその10年と少しの始まりにあたる頃に過ごした景色をあらためて見ておいたほうがいいのでは、という控えめに言っても大変にエモい理由がそこにはあって。それで世の中も休日(しかも連休じゃないか!)だってことを完全に忘れて、いつも通り悠々と券売機に向かったら立席オンリーの表示…立席ってそれは席なのか…あいやでも立ち見席、て言うもんね…。そもそも自宅の最寄り駅からずっと立って来たのにさ…ということでトータル3時間ほど座ることなく移動。まあでも普段と違う新幹線の乗り方が出来たので良かったと思うことにする。(だが実は帰りもそうだったので、なんだかなあという感じである)
 
 
▼かの地の駅に降り立ったときには当初の心もちはどこかへ消えていて(それでもよく行ったレコードショップをのぞきには行った。無くなっていたけれど。)、その代わりにやはり将来住むならまたこの地なのだろうかとぼんやりと考えていた。昼時でどこの店も長蛇の列だったので食事は早々にあきらめる。まあそれ自体はどうってことないことだ。みんなの合格祈願と自分の学業についての祈りを神社で済ませたあと、ぐんぐんと歩く。姿勢よく、空気をたくさん吸って、吐いて。
 
 
▼大きめの公園に出る。住んでいた頃には一度も来たことがない場所だ。トーキョーに出て、どこからを「遠い」と感じるかという距離の感覚が確実に変わったと思う。噴水の近くで恋人たちが身を寄せあい、何事かを語っている。その後ろをティーンネイジャーたちがスケボーや自転車で通り過ぎて行く。開けた場所に出て、ベンチに座って風を感じる。たくさんの家族が芝生の上で思い思いに過ごしている。スポーツ…野球よりサッカーの方が優勢だろうか。遠くにはバスケットに興じる少し強面のお兄さんたちが見える。お兄さんって言っても、きっと僕より年下なのだろう。ふとこの街にはプロのサッカーチームも野球チームもバスケットチームもあるということを思い出す。
 
 
▼バドミントンに興じる3人組の女の子のうち、ひとりだけ明らかに頑張ってる女の子がいて、その真っ赤な紅は向こうでよく見るよ、と心の中で話しかける。その子は途中で抜けてはスマホシャトルが舞う円形との間を行ったり来たりしていた。女の子といえば、縄跳びをしている子が多かったかな。男の子で縄跳びをしている子はいなかった。不思議だ。そしてやはりちびっこの動きはむちゃくちゃで、最高だ。
 
 
▼子どもを育てることになったら…ということを考えて、やはりここはとても良い場所だというふうに感じた。でも…いくらネットでフラット化が進んだとはいえ、ここは昔からポップカルチャーの空気が希薄だ。あの頃の僕の苦しみの一端はそこにあって、それでトーキョーに出てから強く感じたのは「東京」に住んでいる人間と「トーキョー」にしか住むことのできない人間との圧倒的な情報量の差だった。そこにコンプレックスめいたものは今更特にない。ただ単に、浴びているものに絶対的な差があれば、それはもう形作られる人間自体が変わってくる。「東京」に住めばたぶん「トーキョー」が見えないし、逆もまたしかりだろう。まだ見ぬその人は、そのことをどう感じるのだろうか。
 
 
▼文化が都市をつくる。そう小沢健二は語っていて、僕はそれを最初聞いたときに大学の文系学部縮小関連の話題のことを思い出していたのだった。あの話題は本当に悲しいものだった。そのことがもう一度学生になることを間接的に後押ししたところがあるかもしれない。哀しくて悔しくて、この野郎と思った。文化と芸術を自分の手でしっかり抱きしめておかなければならないと思った。自分が生活に浸食されず、人生を歩もうとするためにも。
 
 
▼街や都市の表情を見る。そこには確かに生活がある。でもその生活の場である街や都市は、文化で成り立っている。今住んでいる街も、学生時代を過ごした街も、そして無くなってしまったあの街も、見ればそこには文化があることが分かるし、分かった。それはきっと人間だって同じなのではないか。どの街に住んで、どんな人たちとかかわって、どんな人と恋に落ちるのか。いうなればそれは全て文化の選択だ。教養や知識や経験は、それら文化の選択に自由であるためのものなのだ。そういう極端なことを考えはじめたころ、「帰ろう」と思った。文化のない街ができ始めている―それは予感でしかない。仮にそれが本当にそうだとしても、それはきっと時代や人々の要請であるのだろうから否定できるものではない。でも、自分は選択をしたい。自由であると、信じられる程度には。
 
 

新幹線の車窓から地方都市の夜の風景を見る。明かりがついているビルはもとより、寝静まって明かりの落ちた家々も、すべて営みだなと感じる。その途方もなさに気の遠くなるような思いと甘美な憂鬱さがやってきて、最終的には愛おしさを覚える。旅の何よりもこの時間を好んでいるかもしれない。(2017.5.4)

帰りの新幹線でこのときと同じ感慨を抱いた。でもその日はこのときよりももっと「明るさ」というものに感じるものがあった。昔はあまり思わなかったけれど、もしかしたら僕は寂しいのかなとか疲れてるのかなとか思うことが増えた。いや、昔から思っていたのかもしれない。忘れていくものだから…。「かわいそうな人」と僕を呼ぶあの人と君の声が耳奥に。口のはた、ゆがめてしまう。立席仲間(そんなものいない)に気づかれないように窓の外を強めに見て、1日を反芻する。学生時代に通い詰めた書店は今では違うチェーン店が入っていて、品ぞろえもずいぶんと変わっていた。別フロアには表参道にある店のポップアップストアが出ていてたくさんの人が並んでいた。僕は自分が思った「帰ろう」の自然さを思い出していた。
 
 
▼あの人から連絡が来ていたので返事をする。そのコが話していたあることを思い出してそれに関してメッセージを送る。それでも新幹線を降り、丸ノ内線に乗り換えるころには「今度会ったら話そう」と思ってぜんぶ投げ出してしまった。こういうふうに無邪気に明日が来ることを信じている様が意識の上にのぼってくると決まってこれまでの僕とこれからの僕が離れて行く感じがして居心地の悪さを覚えるのだった。
 
 
▼最寄駅に降り立つ。今日のこれが全部他人の夢だったらいいのになと改札を抜ける。文化を感じながら家路に着いた。