重ねられた生活 20171021~1027

1021(Sat)

僕の好きな人は言葉の使い方が少し変わっていて、それが時々本人の意図から外れて僕の核心をついていることがあり、心が強く動かされてしまう。のだった。そしてそれは君もそうだった。ただ当然ながら違うところもあって、君のそれは余りにも芯を食い過ぎており、核心だけでなく僕だけの真理を突いていることもしばしばであった。だから僕は随分と弱ってしまったのだろうな。なんて人のせいにしてしまう。それぐらいの強烈さ、だった。
 
僕だって、役割に袖を通したときに口から出る言葉では、たしかに人を動かしていることがある。正解が何なのかはきっと一生かかっても分からないとは思うけれども、それでも子どもたちによって様々なコードがあって、そこにはおおよその傾向のようなものがあるところまでは感覚には入っている。でも好きな人や君が僕にしてみせたように、日常の、その人の言葉で誰かに天啓のようなものを授けることができたらどんなに素晴らしいだろうかと思う。もちろんそれは言葉通りにいけば不遜な態度ではある。でも…そういう言葉を自らのうちに蓄えることができたのなら、きっと僕の人生には光があるとそういうことにはならないだろうかとそう思うのだった。他でもない自分自身が自分自身の人生を照らす光となりうる可能性。そういう自分を肯定する術を積極的に探していきたい。誰かを正しく肯定するためにも。
 
 

1022(Sun)

予定が流れた日曜日はふて寝を過ごすに限る。来週こそは晴れるんだろうなと様々な機関の予報を見てみたら次の台風が出来てて苦笑い。まあフジロックの1回目も大嵐からスタートだったし、色とりどりの思い以外にもこれからの日々を彩るものがあってもいいだろう…となんとか自分を納得させる。
 
夜に10年とすこしについての一連の記事を書き終えた。大儀であった。だが特に目新しいことは出てこなかった。当たり前か。でもなんか、書きあげられてよかったなと思う。ようやく異化できたというか。とても自然に、これからも君と共にゆこうとそう思えた。今はとりあえずそれだけ。
 
 

1023(Mon)


2016/03/30  大森靖子@HMV池袋エソラ

野球は好きだけど 野球中継は観ない
わたしがチャンネル回した途端に 岸が打たれたらどうしよう

初期の楽曲のうち好きなものの1つがこの「コーヒータイム」で(岸君はいま自分のひいきのチームにいて嬉しい限りです)、この歌いだしに「自分を雨男だと認識するときの無自覚な尊大さ」を遂に僕が自覚してしまったあの日の感じを重ねてしまって毎回ひどく心を打たれる。だからこそ

逆上がりもできないまま
大人になっちゃって私
ファッション誌なんか読んじゃって
やられたって感じだ

というその後にあらわれるラインの照れ隠しみたいなものがすっと入ってくる。そのままでいい、じゃなくて「それでもいいよね」と言ってくれるのは嬉しい。それにしてもこの動画もそうだけど『TOKYO BLACK HOLE』発売前後の辺りの弾き語りには好きなものがとても多い。もっともっと『TOKYO~』は評価されてほしいなとそう思うのだった。
 
 

1024(Tue)

好きな人と隣り合って電車で揺られている。どうしてこうなったんだっけ?空気を読んで席を詰めてくれたおじさんにちゃんとお礼を言う姿、よい。それだって結論ありきだろと外野(自分)の声が聞こえる。そんなこと言われても、しょうがないよね。
 
ターミナル駅で乗客がぞろぞろと降りて行く。車両にさびしく取り残された僕らと幾人かの人たち。向かいの窓ガラスに映る2人の影は悪くないだろう?あんな話やこんな話をする。乗ったことのない車両、当然見たことのない景色、隣にはいないはずの人、だからやっぱり見たことのない景色。そういう時間が駅間をつないでいく。そして控え目に響く僕らの笑い声を残して、僕は降りたことのない駅に投げ出される。もうずいぶん、冷え始めたね。ぼけっとした僕らをその街の日常の空気がつつんでいく。こんなに大切なことなのに、行きかう人たちは誰も気に留めてないだなんて。すごいや。
 
 

1025(Wed)

また台風だねえとうなだれる僕を前に好きな人は迷信の類を持ち出してはへーきですよへーきなどという。そんなふうに言われると平気な気が…してこない。が、まあなるようにしかならないよなという気持ちぐらいにはなる。お天道様に好かれる生き方をしてきたわけでもないですし。ね。でもさあ、天気なんとかならんかなあ。
 
部屋に戻って『マインド・ハンター』のS1を見終えた。クレジットを見なくてもフィンチャーが撮ったエピソードなんだなって分かる映像の良さよ。
 
 

1026(Thu)

ファッツ・ドミノが亡くなったらしい。訃報を前にして存命であったことを知るのも倒錯しているなと思いつつ。
 
原初の音楽体験はテレビから聞こえてきた流行りのポップスで、その後ラジオとカセットテープで時間の軸がフラット寄りになり、インターネットがあなたが好きなのはロックじゃなくて、ロックンロールだよということを教えてくれた。そしてレコードショップや図書館から僕が好きなのはブルーズだったのだということを学んだ。ひらたく言えば僕はそういう音楽体験をしてきた。ファッツ・ドミノも、通り過ぎたヒーローの1人だった。 
 

Fats Domino - The Fat Man (Live)
 
僕は自然と体が動いてしまうときの動きがすきなんだ…。
 
ちなみに目黒線沿線のジャズ喫茶から、ジャズは詳しくなくても感じられるものがあるんだよということを教わった。2時間近くいて帰ろうとしたらもう1曲聞いてけ、て言われて素直に聞いてったんだっけなあ。もう何年前の話だろうか。
 
  

1027(Fri)


欅坂46 『サイレントマジョリティー』
 
これが出てわーわー言われてる時に、僕は世代間対立としての「大人」はもうだいぶ前からいないでしょう?と思っていて(僕らが戦うべきはきっと慣習とかシステムとかそういったもので、それはたぶん「大人」とは本質的には関係ないはず)。親殺しの感覚の喪失については、それは極めて個人的な経験ではあるけれど件の記事のdisc1で述べた。そういう時代ってある意味では少しだけ悲しいよねという気持ちをこめて。もちろんそれだってニヒリズムの渦の中にあるものなのかもしれないけれど。それで…だからここで言われているような反抗ってどこまで有効なんだろう?という疑問があったのだけれども、後発のシングルなんかみてると、ああ10代の同調圧力のようなものから救われた人がいるのか、と考えるとなんとなく合点がいって腑に落ちたのだった。それは普遍だものね。だからここでいう大人っていうのもまたいわゆる大人とは別のもので…。
 

大森靖子「サイレントマジョリティー」Music Video
 
大森女史が歌うことで、あるいはミスiDの面々がMVに出ることで、また全然違うニュアンスがここには出てくるなと思う。「M」からの流れで考えると特に。原曲の方で救われる人間とこちらで救われる人間はまた別の気がする。自由に生きようとしているだけなのに、おもに自分のせいで(あるいはそのように感じてしまう、ということなのかもしれない)不自由になってしまった人たちを「それでも」へ向かわせるもの。そういうものがこちらには色濃くある気がする。どちらがいいとか悪いとかそんな問題ではない。どちらも必要なものなのだろう。僕はそれらを前にただただ「表現」の妙に感嘆するばかりである。
 

大森靖子「M」LIVE [MUTEKI] DVDより
 
今週はここまで。だよ。