重ねられた生活 20171028~1103

1028(Sat)

大学でいろいろな話を聴いてくる。僕もこのコミュニティのはしっこの方に存在している。ずっとしたいことではあったけれど、まさか本当にもう一度学生になるなんて。不思議な感覚と高揚感がそこにはあった。
 
今思えば1度目の学生の4年間というのは最低限の社会生活を営めるようになるまでのリハビリみたいなもんだったんだろうなと。いまは純粋に学びたいことがある。そのために自分の時間やお金を使うということも含めて、いろいろあのころとは違うということを感じる。かつてのようなささくれ立った気持ちや焦燥感ではなく、純な興味だけがその駆動を支えている。僕には確かに時間が流れたようであった。
 
事務的なことや学び方などの話はもとより、足を運んで良かったと思ったのは「学問は人間より大きなものだ」という話が聞けたことであった。心からその通りだと思う。キャンパスを歩きながらこの場には社会生活とは異なった時間が流れていることを感じる。それは1度目の学生のときには感じえなかったものである。がんばろう、ただそう思う。
 
終えて、大手町で買い物。僕が欲しかったものはなくて、好きな人にあげたかったお菓子はあった。仕事を済ませて、好きな人に会いに行って、約束はまた延期だねと話しながらそれを渡す。「何者ですかそれは!」帰りの電車でひとりになってから気づいたけど、生まれて初めて聞いた言葉づかいだった気がする。ずるいんだよな、そういうの。
 
 

1029(Sun)

恨めしい気持ちで空模様を眺めながら、でもすこしほっとした心もちで。浅い眠りと頭痛を繰り返しながら、僕は正しく進んでいるのだろうかと考えてしまう。僕にとっては正しいことかどうか(あるいは正しいと自分が信じられるかどうか)はわりと大事なことなんだなと思う。
 
台風が通り過ぎている、そんな夜中にぼんやりと地上波のテレビをつけていたら(すごい久しぶりだったのでCMがあるということに少しだけ興奮した)、アイドルと思しき若い女性たちがわちゃわちゃしはじめた。誰ひとり名前も知らない状態だったけど、なんだか若さの持つ暴力的なきらめきを見せられているようで、元気をもらう人がいるというのもわからないでもないな、でもそれはきっと、彼女たちと同じくらい実は元気な人でないと受け取れないものなのではないかなということを考えた。
 
 

1030(Mon)

大学のテキストに近似複数の話が載っていた。つまりはWeは厳密にはIの複数ではないよねって話。その混線が起きないって途方もないほどにすごいことなのでは…!という気持ちになってしまった。その処理ができるのに、簡単に思えるような感情の整理がなぜ難しいのか。担当部署の違い?いやはや。
 
 

1031(Tue)

幸せになる準備、できてんのかなあと思った。もしできてないとするならば(できた感じはないのできっとできていないのだと思う)、いったいどうやって準備すればいいのだろう。
 
10年のあれを書き終えたのでようやくサニーデイ活動を振り返る書籍『青春狂騒曲』を読み進めている。僕は第1期サニーデイの活動に間に合わなかったし、住んでいた街にそういう文化がなかったので音楽誌なども通らなかった人間だ。だから当時のインタビューが読めるだけでもとても嬉しくなる。でも少しずつ重たい内容がちらほら見えてきているので時間をかけて大事に読みたいなという気持ち。

青春狂走曲

青春狂走曲

 
  

1101(Wed)

時間差で建物から出て、途中で落ち合うということを打ち合わせなしでやるような大人になってしまった。なんてことだ!
 
あー今日だめな日だあ。ふふふ。と相変わらずふにゃふにゃなその横顔を覗き込みながら、そうだな、ぼくもダメな日あるよとか思う。ぼけぼけの2人は何もないところで躓いたりものをぼろぼろ落としたり、壁にぶつかったりしてふへへと笑いながら歩いていく。大人なのにね。まあ怪我にだけは気をつけよう。お互いに。
 
 

1102(Thu)

帰りの電車で猛烈な眠気に襲われる。それでも勉強をしなければいけないからと部屋に戻ってからなんとか気持ちを奮い立たせたのだけれども、全然だめだった。しっかりとした睡眠時間を確保させようとしているとするならば、睡魔も案外いい奴なのかもな。でも睡魔って何が目的で僕らを眠りの世界に誘い込もうとしているのだろうか。ノルマとかあんのかな。
 
 

1103(Fri)

くたくただ。仕事、もういい加減にしてくれって感じだ。
 
ストレンジャー・シングス』のS2を何日か前から見始めていて、そのエピソード1で子供たちに再会したとき、前シーズンで感じたあの正しきジュブナイル感がさーっとよみがえってきて素晴らしい気分になる。今シーズンも安定の面白さでよい。実に良い。
 
面白いといえばやはりアウグスティヌス『告白』である。本編自体は既に読み終えているのだが、訳者である山田氏のあとがき・解説がまたすこぶる面白く、何度も噛みしめてしまう。
 
懺悔としての告白と賛美としての告白の同居について以下のように述べられる。

自分は無から造られた。神が自分を存在せしめてくださらないならば、自分は無のうちに消えてゆく。罪とは無へのかたむきであり、罪の告白において、私は「無からのもの」であることを告白するのである。しかし自分は、無ではない。「無からのもの」であるとともに、神によって「在らしめられているもの」である。自己を「無からのもの」と知ることは、一面の真実である。
他面、自分は在らしめられて「在るもの」だと知らねばならない。自分が無であるとか、罪のかたまりであるとかいう告白は、それだけでは誇張であり、虚偽である。自分は神から在らしめられて「在るもの」である以上、やはり何らかの善きものである。それゆえ告白は、それが真の告白であるためには、たんに罪の告白、自己の有限性の告白だけではたりない。自分が神からうけている善きものをすなおにみとめ、それにたいして感謝の告白をしなければならない。(p.303-304)

澄んだ空気を胸一杯に吸ったときのような気分になる。文章でそのような体験ができるのだ。これに感動せず何に感動すればよいのか。
 
そして今度こその約束の日が迫っている。今週はここまで。