2018年3月4日のエモ

着る服が決まらないってなかなかのエモみがある。それで待ち合わせに1分だけ遅刻するなど。それとこれとは別でそんなことではいかんなと思うわけです。あなたはそんな僕をよそにへーきですよ行きましょう!とずんずん歩いていく。この人は集合場所しか知らないのにいったいどこへ行くんだ?と笑った。自由と無限。いつだって好きな人の一挙手一投足から何かの一端を見出してしまう。僕には理由が必要だからこそ。
 

お互いに言いわけを重ねたその末にあるプレゼントを買うという行為。僕が身勝手にも買いたい!渡したい!と思ったからことが運ばれていったのではあるのだけれども、いろいろ状況を考えては買う理由と買ってもらう理由を双方に組み上げていく作業をしたのであった。まったくまどろっこしいな!あげたいという気持ちがあって、受け取ってもいいかなあという思いがあるのならそれでいいじゃないかと感じる。それでもその過程がまだ楽しいぐらいの時期だからとかなんとかムニャムニャしたことを。それで、僕にもあなたのチョイスで何かを選んでもらおうかしらとお願いしてみれば、ゾーンの中の商品一つ一つの値段を確認していちばん安いのにしてた。こういうところである(自由と無限)(意味の拡張)。やぼだから言葉にはしなかったけど、端的に言ってサイコーだなという気分で笑いあった。そういうことするやつにはこうだ!とか言って、色違いのを買いそろえて追加でプレゼントした。
 
 
インターナショナルな風景を抜けて公園でおやつを食べる。久しぶりに太陽の光を浴びたいように浴びていて、言うことないなと思いながらあなたの話に耳を傾けていると、幼い子どもが駆け寄ってきた。そしてあろうことか木片でつくった皿にのった花を1つくれたのだった!こんなこと現実に起きるのね…と思いながら感謝を伝えると、「わたしが今日は花屋さんだから」(原文ママ)とのこと。もらった花をあなたの頭に載せて遊んだ。子どもは花屋に飽きたのか、落ち葉を集めてむちゃくちゃな動きをしていた。僕もそれを許されたいと思った。
 
 
バスの車内もエモい。そこにあるのは人生と生活だ。ゆったりと、ときにぐんぐんと進む景色。車内に響く早く着き過ぎちゃったから待つね的なアナウンス。よい。お菓子のおみやげを買いながら試食品をあなたの口元に持っていったとき、突然にこれはアレだと思った。「おいひい」て聴こえてやっぱアレだ!と思った。アレ。
 
 
たわいもない話をしたり、たいやき(やっぱたいやきはかわいい!)を分け合ったり、鳩に襲われたりしているうちに日が暮れる。ご飯もお酒もおいしかった。この人との食事はおいしいと思う。何よりとびきりに楽しいのだ。
 
 
東京タワーより京都タワーに先に登った人生だった。でもあの赤い電波塔に僕はなにかを感じてしまうのだった。あれがある風景は、あるいはあれの構造は、存在は、相当にエモい。具体的なエピソードは皆無であるのに、僕がトーキョーに抱く思い入れの何割か(そしてそれは決して少なくないのだ)はあの塔が醸す空気で説明がつくような気がしている。象徴というのはすごい。その想いを受けてなお耐えて立ち続けていることがすごい。ああ、語彙よ。以前も触れた山戸監督の『玉城ティナは夢想する』に「ああ、もしかして私は、そんな女の子たちの心の、集合体なのかもしれない」という言葉が出てきて、それと同じだなと思うのだった。そのときも言ったけれど彼女は彼女になりたがっていて、そのどうしようもなさというものにとにかく心が惹かれるわけだけれども、きっと東京タワーの立ち姿というのは、それを引き受け切ったものの姿なのだと思うのだ。
 

 
 
日曜夜、タワーの見える公園はまあまあの人出だ。こわいこわいと笑いながらベンチに座った僕らは、あの日口を滑らせてしまったことの仕切り直しをした。あれはあれでなんか良かったらしいけど、そういうんじゃないのよね、こっちとしてはさ。そうなることが決まっている日々をあるいは望むような姿にするべく踏み込んでいく。はじめから好きですよ、と笑うあなたとの延長戦がはじまる。キスをする大人たち、青春の残り香に包まれる若者たち、同窓会帰りの高齢者たち、そしてまるで10代のような顔をして放り出された僕らを、タワーの灯りが等しく照らして、等しく見ないふりをしてくれていた。