2018年5月3日

忙しくしているうちに、5月になってしまった。この間、何かを生み出すわけでもないようなことを繰り返しては、命の無駄遣いをしているようなそんな気分になっていた。仕事の環境がまた変わり、まあそれは幾分まともな状況になりつつあるのだけれども、やはりこれを一生の生業とするには少し考えてしまうなというのは相変わらずで、うまいことそこを抜きながら本当に自分のやりたいことに時間を使いたいと考えている。
 
とはいえ勉強は完全に停滞している。自身の怠惰さを棚に上げて言うなら、時間が圧倒的に足りない。どうしたものか。
 
  
3月に、敬愛するルドンの展覧会に行ってきた(学生の身分をいかして、無料で)。彼は僕に「見る」ということの重要性を教えてくれた人だ。「眼は、精神を養い、魂を養うさまざまなものを吸収するために不可欠のものである。見る能力、正しく見て、真実を見抜く能力を持たない者には、不完全な知性しかないだろう。見るということは、おのずから物事の関係をつかみ取ることなのだ。」とは彼の言だ。自分の中でそれを「見ればそうなる」にリンクさせることができたのは、人生の中でもエポックな出来事のひとつだと思っている。だが…展覧会そのものは楽しめた一方で、現状の僕には「見る」ということができなくなっているのだということがよくわかる時間でもあった。視力・解像度が落ちている…適切な表現かは分からないが、そんな感じだ。霞がかかっているというのとはちょっと違って、外的な要因で視界が遮られているというよりは、もっと内部的・機能的な部分からの影響が大きそうな気がしている。
 
2018年の音楽は、期待外れもあるが良い作品に出会えている。また追って書こうとは思っている。
 
 
幾度かの逢瀬を重ね、月の半分もの日々、外で顔を合わせるようなことをしながらいまだに名前の付くことのないこの関係に対しても、もはやどうなるか見てみようくらいの気持ちになっている。少しずつ撤退戦の準備をしなければと思いながら、腕を組み、手をつなぎ、肩に頭を乗せては静かに寝息を立てるこの人の子供のような姿を前に、どうしても決めかねてしまう。僕がこんなことをしているころ、君は何をして、誰を導いているのだろうか。
 
とにかく、いろんなことを考える。考えているはずなのだが、そのどれもが僕にとどまらず、泡のように消えていってしまう。僕の最後の日々の実体のなさに、ぬぐい難いほどの耐えがたさを覚え始めているのだった。