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2017年3月23日の断片日記

▼家電量販店でブックライトを選んでいるときも、仕事の間も、仕事を終えて部屋に戻るときも自分以外のことを考えていた。それでも荷物を片づけて温かい飲み物を準備して自分のことを思ったとたんに、10代のなかった僕にも青春の終わりが訪れたのだと気がついた。それは春が待ち遠しいなと思うときの気持ちに似ていた。そういうものが湧き上がってきて、そうか、青春の終わりか、とただただ噛みしめるばかりなのだった。
 
 
▼終わりがあらかじめ規定されているが故の楽園、その中ではみじめなことすらも美しさに転化するという特別な季節が青春だ。そしてそれは全てが終わってから気づくもの。僕にもそれがあったらしいことに、安堵にも似た思いがある。楽しかったかと言えばまだそれほどの距離はそこにはないけれども、きっと良かったのだろうとは思う。
 
 

「愛情」とよく一言でいいますが、実際は「愛」と「情」はちょっと手触りが違う感情です。一方的に自分に与えてほしい、自分を気持ち良くさせてほしいっていうのは、実際は相手のことなんかどうでもいいってこと。目の前にいる大切な人に自分も同じように与えたい、この「あなたが好き、大切よ」って気持ちを分かち合いたいと相手を慈しむ心が「情」。「愛」はもうちょっとジャストナウ感が強いパッション、性愛とかインパクトの強い衝動も含むもの―という話を羽海野さんは打ち合わせのときにしていました。(p.130)

 
そう考えると「愛情」っていい言葉だなと思う。放り出してしまったのだけれども、2016ベストディスクは実は8割完成していて、その中で例の『恋』について触れたテキストがある。そこでは「愛の歌が愛を歌うだけで間にあうなら…それならそれをどうやって克服していくか。ひとつの答えが「恋」なのだろう。」なんてことを僕は言っていて、きっとそれとは別の克服法が「愛情」なのかな、なんてことを考えた。それにしても『ハチクロ』。事前情報も一切なく本当に何となく手にとって、衝撃と影響を受けてからもう15年以上も経つのか、という感慨深さがある。『3月のライオン』については、完結してから言えることがあれば言おうかとも思ってはいる。僕にもこの街へと越してきてから確かに居場所をつくってくれた3姉妹がいて、とてもじゃないが他人事には思えないので。
 
 
▼そしてこれはずっと考えていたことなのだけれども、ついに新たな学びの場を探し始めた。そう、そのことも青春の終わり感を後押ししているのだろう。いろいろ頑張らないといけない。うまくはできないかもしれないけれど、一所懸命やることなら(まだ)できる。はず。
 

2017年3月21日の断片日記

いうまでもなく本は単に読むためのものばかりとは限らない。というのは、読まれつつある時だけ本の効用があるのではない。いつでも読み得るということ、否いつでも楽に見ることが出来るということが、本の効用なのであるから、読まなくても何か所有するということに書物の意義があるのだ。本は手回りの道具であり材料なのである。それを用意することが本の所有の価値なのである。

 
珍しくとれたわずかばかりの休憩時間に文庫本の中を漂いながら、本の置き場所のことを考えていた。部屋のあちこちに本が「整然と散乱」していて、もういい加減にしなければならないのだった(まだまだ欲しい本は山のようにあって、それはつまりそれがさらに増え続けることを意味している!)。それでもそれらを整理するための新たな本棚を迎え入れるスペースなどはとうになくしている。いっそ戸棚の食器を全部捨ててしまってそこに放り込んでやろうかと考えたことは数知れず。それでもその企てはいつも計画段階で頓挫する。散らばった本たちはといえば、拾いあげられひとまず小さなカゴのようなもの(たくさん買ってきたのだ)の中で眠らせているのだが…。
 
 
▼どうせ部屋でとる食事なんてろくでもないものばかりなのだから、実際には食器を捨ててしまっても生活上困ることは今のところないのだけれども(炊飯器は捨てた)、それでもすんでのところで僕をとどまらせるのは、食器というものへの嗜好である。紙皿や紙コップだと何かが毀損されたと感じるほどに気高い精神を持っているわけでもないが、食事をするための皿、器、グラス…というものに途方もない何かを感じてしまう。陶器単体としての美しさは正直分からないのだが、料理が(それがどのような味・見た目であれ)よそわれるや否や輝きが増すような、それでいてあくまで主役は料理ですよというそのたたずまいのことを思うと、これらを捨ててしまうなんてとんでもない!と思う。のだった。値段に関係なく、食器の類にはそれがもれなく備わっている感じがする。(もちろん程度の差はある)
 
 
▼本について少しずつ処分したり売ってしまったりという作業はしているのだけれども、冒頭で引用した戸坂潤の言葉のようなこともあるし、ロラン・バルトが言うように「分析は体系が完成したところから始まる」ということもあるわけで、とにかく今はまだまだ集めて読んでの繰り返しの季節なのだ。それと並行して再読も進めて行かなければならない。時間もスペースも足りない。せめて長生きしなくちゃね。うわ、考えているうちに今急に前向きになった。まあ、よいことだね。うん。
 
 

2017年3月20日の断片日記

▼人間の関係というのは劇的に始まったからといって劇的に終わらなければならないということはないようだ。頼りない逢瀬の契りは5日遅れでふらふらと不明瞭に始まり、そのまま曖昧に果たされた。僕らは交わす言葉も少なに、そしてありがとう・さようなら・元気でといった類の挨拶もなく、居心地の悪さだけを高めていった。意味があり過ぎて意味を失った感情がジャンプカットのようなつぎはぎの会話とともにぼろぼろと床に散らばっている。そんなふうにして僕らを置き去りにした時間だけが終幕へと加速していく。これはいったい何度目の別れとなるのだろうか。それでも、今度こそ本当に終わりなのだと感じる。終わるはずではなかったタイミングで終わってしまったものを、きちんと終わらせるためにあの日君は戻ってきた。そして2人で知らないふりをしながらこの日を目指して歩いていたのだ。これが映画なら、とても美しく撮ることができただろうと思う。

  
▼予感だ。その朝、確かに予感が僕を「3人称で彼と彼女のことを歌う」音楽に走らせていた。保坂先生は人生や世界を外側から見ない訓練をしなければならないというようなことを言っていて確かにそうだなと思うのだけれども、それでも僕らの日々をもっと外から見て、語り得る何かとして表出しなければこのまま何もなかったかのように消えてしまうのだという確かな恐怖がずっとそこにある。だから僕は書き続けたのだし、今朝の僕には3人称で語られる物語としての音楽が必要だったのだ。我思う故に我あり。それだってその通りなのだろう。でも、思う我を疑うことはできなくても、「思った我」には大いに疑問の余地がある。僕らは瞬間にしかいないのに、瞬間にとどまれない。全部消えてしまう。それは美しいけれど、とっても恐ろしいことでもある。その恐怖の前にどうしようもない思いがわいてくる。そしてきっと、僕らの日々は君の「わたしのせかい」には残らない。だからこそ僕の「わたしのせかい」にはそれを確かに刻み込まなければならないのだ。でも、僕らが終わるということは僕が終わるということだから、何とかして僕の「わたしのせかい」を僕だけではなく「ぼく」が―すなわち僕の神様が―見える状態にしなければならない。ぼくは僕のことを常に見続けているけれど、僕が消えたら何を見るんだ?僕が再び目覚めるその時まで、ぼくには僕の「わたしのせかい」を見続けて保持してもらう必要があるのだ。
 
 
▼君の残していったものたちが沈黙を貫く部屋で、氷の入ったグラスにジンを注ぐもそのまま次の工程に移れなくなる。そうやって何かに仮託して、一見逃避とは分からないようにして逃げるのは卑怯者のやることだぞ、と僕らと過ごしてきたものたちが警告を発する。うるさいなと舌打ちをする。そうやって何とか工程をすすめようとするもやはり動けない。手にじんわりと汗が浮かぶ。その警告が、ずっと前から発されていたものであったことに気づいてしまった。いや、正確にはずっと気づいていたはずだ。ついに向き合うときがきたのだ。逃げるな逃げるな逃げるな。写真が、本が、本についた付箋が、手紙が、手紙を包んだ封筒が、手紙を書いたペンたちが、服が、僕の服が、君の服が、騒いでいる。耳をふさぐことすらできない。氷がカランと音を立てる。「お前は、他人の人生を背負うふりをして、他人に自分の人生を背負わせようとしていたのだぞ」僕はグラスを手にやっとの思いで立ちあがり、流しにそろそろとそれを注いだ。僕なりの戦いだった。必死だった。悲しさはないのだ。もう悲しむフェーズはとうの昔に終えているのだから。恐怖に近い、名前のない感情。ただはっきりと、何でこんなに残していったんだよ、とは思ってしまった。泉まくらの声が聞こえる。「奪うなら最後まで奪って/私の希望まで全部奪って/あなたなしでかろうじて生きていくなんて」それでもやっぱり涙なんか1粒も出ないし、ましてや自分の言葉なんて。
 
 
▼これが映画なら、美しく撮れると僕はそう言ったけれども、そうなることが僕の望みではなかった。瞬間にとどまる術を見つけたかった理由の1つは、いつか必ず訪れるであろう終わりのその時に、そこに広がる美しさを1人称でとらえ、その中で1秒でも長く美そのものとしてありたかったからだ。そのために僕は、今日を生きよう、そして自分の人生を生きよう、そして瞬間へ行こうと自分に語りかけていたはずだった。でもいつしかそれ自体が目的化してしまっていたのかもしれない。1つの大きな終わりには間にあわなかったけれど、それでも僕はこれからも終わり続けるのだから、せめて終わりの終わりには間にあわせたい。僕はこれから、僕を救った魔法に僕以外にも分かる意味を与えられるように生きねばならない。もしそれが叶ったならば、それはきっと1人称であると同時に3人称として生き続けるものとなるに違いない。