2017年の断片的な目次

日々に目次をつけていきます。その日の日記とは関係のない場合が多いです。「僕の」目次なのかもしれません。
 
 
・4/ 9 「ごはんのお供」という表現 
・4/10 このお礼はいずれ、精神的に。
・4/11 これはあおいさんのためじゃなくて、わたしのためなんです。
・4/12 ただいまの気温19℃
・4/13 前よりしなびたんじゃないですか
・4/14 そのために電話くれたんですか?
・4/15 結局、昨日カレーにしたのかなあ
・4/16 waste of timeだな、つって。
・4/17 何で行っちゃうの?ってそりゃあ、お迎えが来たから。ね。
・4/18 ちょっと待ってて
・4/19 Yogee New Waves / Like Sixteen Candles
・4/20 ロメインレタス
・4/21 がんばってでますね
・4/22 キリンジ / エイリアンズ
・4/23 都会っ子の余裕
・4/24 「How does it feel」の発音
・4/25 良くない日だった
・4/26 「都立が丘」という駅で突風と洪水に見舞われ、流された先の映画館の屋上から街が海になるのを高校生たちと見続けるという夢を見た。
・4/27 遠くへ行きたい どこへも行けない
・4/28 ますますのご活躍を
・4/29 ピエロ
・4/30 尋常小学校を見に行くことを思い立つ
・5/ 1 東へ
・5/ 2 西へ
・5/ 3 いろんな人がいろんな人に似ている
・5/ 4 やさしさの押し売り・善良な悪人
・5/ 5 なに気持ち良くなってんだよ
・5/ 6 ひどい現場
・5/ 7 何だよその話
・5/ 8 つかれた
・5/ 9 つかれたら、食べてね
・5/10 あなた(あるいはあなたがた)がここにいてくれたらいいのに
・5/11 いつかは3姉妹との場所からも追い出されてしまうのだろう
・5/12 目が覚めたら泣いていた。びっくりした。 
・5/13 人が怒っているのも怒られているのも苦手だ
・5/14 「傷ついてよ」と「傷つけたい」の間は何光年も
・5/15 乗客たちが一斉に降りた後の湿気
・5/16 元気が出てきたというのは誰かに内側の元気を抜き取られている過程なのではないか
・5/17 やったー
・5/18 何かを待ったり探したりしている時間が長い
・5/19 自分に見合うと思うからだ
・5/20 僕も楽しかったよ
・5/21 朝も夜も好き。今年の5月は嫌い。
・5/22 外見は中身の一番外側ではあるのだけれども
・5/23 自分の部屋ですらも僕を拒絶するのか
・5/24 英語を話せる人の日本語の発音
・5/25 新宿高島屋に似た構造
・5/26 送迎バスを直視できない
・5/27 強い風を嫌だと思わなかった
・5/28 思い通りにならなさがちょっとね
・5/29 そういや僕は何のために学ぼうとしているんだろう
・5/30 切り離し 
・5/31 締め切りは追いかけるというよりは向かってくる
・6/ 1 夜風が昼間の熱をさらって
・6/ 2 なんでこのカーディガン気にいってたんだろう 
・6/ 3 帰るハードルが高いのではないか
・6/ 4 気遣いは「気遣うなよ」の気遣いには勝てない
・6/ 5 東洋医学への厚い信頼
・6/ 6 憑いてる
・6/ 7 あの傘使ってるかな
・6/ 8 向井秀徳 - CHE.R.RY - YouTube
・6/ 9 ボックスシーツと格闘
・6/10 LIFEつながり
・6/11 夢でも現実でも時計が狂ったり止まったり
・6/12 「残りの」を意識する
・6/13 探している人はその人じゃない
・6/14 君に見せたい
・6/15 受け入れるのと決断するのは違う筋肉をつかうものだ
・6/16 覚悟
・6/17 暦なんて
・6/18 レイトショーと寿司を天秤に
・6/19 ポスターの前で、楽しそうだね
・6/20 どれがいちばん元気がよさそうですか?
・6/21 横殴り
・6/22 言葉と言葉の間の短い声
・6/23 たぶんシンコペーションなんだなと
・6/24 応えてくれなくても、それはそれでほっとするだけなのかもね
・6/25 LIVE FREE OR DIE
・6/26 夏のにおい
・6/27 何度でもやりなおそうね
・6/28 東洋医学への厚い信頼(2)
・6/29 何が傷心だよ
・6/30 SWEET DREAMS
・7/ 1 とんがりコーン(クラシック)
・7/ 2 その高さは届かないです…
・7/ 3 クールにいこうぜ
・7/ 4 コアラのマーチ(クラシック)
・7/ 5 願書
・7/ 6 スピード写真とるたびアメリを思い出すことを言いたい30代男性
・7/ 7 願いごと、のロマンチックさと切実さ
・7/ 8 現状維持は維持できてないのだぞ
・7/ 9 大きな窓より大きな空
・7/10 発券
・7/11 行ってきます
・7/12 話しかけないでほしい
・7/13 人魚というモチーフ
・7/14 それは青春ぢゃないよ
・7/15 おめでとう。きっと今年だけだね。
・7/16 骨が出ている
・7/17 いっそ悪いことやって捕まってしまおうかな
・7/18 似合ってるよ
・7/19 ショーケースの中の世界
・7/20 血は争えないよな、好むと好まざるとにかかわらず
・7/21 シャツを買いました
・7/22 河のにおい。人々の動き。熱。
・7/23 誰もが詩や歌のような日々を
・7/24 寝不足
・7/25 嫌な予感がするよ
・7/26 うまいぞ、ふわころ
・7/27 変な道だった
・7/28 3姉妹の足取りはぎこちないダンスのやうに
・7/29 梅雨があけたというのに
・7/30 それはだれ
・8/ 1 嘘
・8/ 2 バファリンさま~
・8/ 3 はっきり言うのは別に優しさじゃないけど、曖昧さだって、そうなんだよ
・8/ 4 うまいぞ、青りんごサイダー
・8/ 5 感じの良い人に
・8/ 6 東洋医学への厚い信頼(3)
・8/ 7 ポカリスエットさま~
・8/ 8 履歴書
・8/ 9 症状の変遷
・8/10 誰かとすれ違ったような気がするのだけど
・8/11 酷だね、そりゃあ
・8/12 晴れるならそう言ってよね

重ねられた生活 20170805~0811

0805(Sat)

体調不良。仕事。
 
 

0806(Sun)

体調不良。仕事。
 
 

0807(Mon)

体調不良。休日。睡眠と睡眠の間に何かをしていたはずなのだけれども、ほとんど覚えていない。寝ていた記憶、というのは変な話なのだが、でも確かにあるのだ、寝ていた記憶が。
 
 

0808(Tue)

高熱が出ているとき特有の視界のゆがみ方。思えば久しく体温計というものを使っていない。だいたいの身体の感覚で、ああ今何度くらいなんだろうなァというのが分かる。デジタルで何度という情報が計測されたとて、僕の1日の何かが変わるわけでなし、身体が動くなら役目を果たすべし、な世の中である。ふむ。
 
それでもこれだけ外が暑いってのに、汗かきの僕がほとんど汗をかかないのだからこれはいよいよよくないアレですねと思って仕事を早めに切り上げ(それでも予定より大幅に居残っていた。クソッタレ!)、空中にキャンプを張りながら帰宅。トーキョーの記号性を愛している。僕はいつでも、どこでも、よそ者だった。よそ者がよそ者としての居場所をつくるのを、見て見ぬふりしてくれるのがトーキョーだ。
 
 

0809(Wed)

熱が相変わらず下がらない。仕事を終えて帰宅して、勉強をする力も残っていないからとcero特集のユリイカを読む。

荒内 『Obscure Ride』でリズムを意識して更新しましたが、そこに乗っているコードやメロディが邦楽の範疇を出ていないなというのはずっとモヤッとする部分として抱えていたので、それをアップデートしたいなと。言ってしまえばリズムが変わっても歌謡曲的なコード進行なんですよね。だからもっとジャズ的なコード感を入れられないかなと思っていて、なおかつそうしたコード進行のうえに髙城くんの日本語詞が乗っていたらさらに特別なものができそうだなと思ってます。
 
髙城 そういう曲の構造って、ことばにも影響が出てくるんですよね。あらぴーの曲に歌詞をつけるのを手伝ったりするときとかにもよく思うんですけど、歌謡曲的な構造を持っていない曲には、男女が出会ってどうこうみたいないわゆる歌謡曲的な歌詞は到底乗らなくて、すごく不思議だなと感じています。そうすると必然的に描くものが「人」じゃなくなって、モチーフが水だったり、自然だったり、そういうものに変わっていく。これまで書いてきた風景描写に近いものではあるんだけど、たとえば「三月の水」(アントニオ・カルロス・ジョビン)の歌詞のような、もっと現代詩的なものになっていく。

 
語り部的意匠が濃くなってきていたことと、小沢健二を通過して(もともと1stから鳴っていた)並行世界的なものへの言及が増えていたことは感じていたけれど、それがコードなどとも関係していたのですねと。髙城さんはエキゾシズムについて「見慣れたものを見慣れない目線で見る、あるいはその逆も然り、そういう視線」のことだと言っている。人へのフォーカスから離れてそれを浮かび上がらせるとき、見ているのは「誰」なのだろう、と考える。それはつまり「人」を通して並行世界を描いたことと、通底しているのではないだろうか。
 
それにしてもざっとページに風を通しただけなのだが、この特集は中身が充実していそうだ。彼らが鳴らしているのは(東京在住であるにもかかわらず)東京ではなくトーキョーであることや、シティポップにくくられながらもそれを超越していること(確かにその磁場はシティのように見えるのに)などの謎がするすると紐解けるようなそんな気がしている。大事に読もう。

 
 

0810(Thu)

休日。だがこの身体ではどこへも行けない。なので久しぶりにNetflixの話を。随分前に『ベター・コール・ソウル』はS3まで見終えており、また『ハウス・オブ・カード』に戻ってきている。それから2話でとまっていた『マスター・オブ・ゼロ』を再開。3話はFather John Mistyのライヴにイケてる女の子を誘ったらそいつがとんでもねえやつで、かわりに現場で再会した女の子といい感じになったのに、今度は相手が土壇場で「元彼とやり直すことになって…」とか言って去っていくっていうまあそういう感じの話なんだけど、Father John Mistyていうのがもうホント最高だなと思うのだ。こういうのがポンと出てくるあたりにポップがポップとして機能する、大国の懐の深さを感じる。

「Father John Mistyなら観客はほとんど白人だ。人種間争いが起こったときのために、アジア男を連れてけって」
「ライヴで人種間争いが起こったら、その時点でもう終わってる」

なんてジョークをかましつつ、次のエピソードが「インド人・オン・TV」で、いわゆるマイノリティが直面するステレオタイプの物語(を自虐的に描くもの)で、こういうのを目の当たりにすると、僕が住むこの国にポップはあるか?と考えてしまう。制作も務める主演のアジズ・アンサリをウディ・アレンと重ねる向きもあるようだが、なるほどなんかわかる気がする。
 
 

0811(Fri)

早起きをして、テキストをしたためる。自分のためではあるのだが、ある企画を思いつきそれについての原稿を書いているのだ。原稿だなんて!だが、気分は重要だ。久しぶりに楽しいものを書いている。でもこれはたぶん自分が楽しいだけで、それで人を楽しませることができる人たちだけが、それで金を稼ぐ権利があるのだろう。
 
仕事を片づけて夕刻、渋谷へ。向かう直前までいくつかの目的地候補と迷っていた。

ハチ公口から出る。動き、声、警官。外国人、カメラ、ぴかぴかネオン、真っ黒な空。渋谷は来るたびに二度と来るもんか、と思ってしまう。周りを見渡してみて、90年代リヴァイヴァルは確かにありそうだったけど、局地的なことなのかなとも思った。原宿の方へ向かえばまた違うんだろうか。それでも90年代って渋谷、なんじゃないのかしらねとか思いながら『ヘッド博士の世界塔』を聴いていた。

まァそんなこと言っていてもその実90年代なんてものは、僕自身が思春期を自覚する頃には終わりを迎えていたわけで、その時代の特異性のようなものは比較する対象を持ったときに初めて立ち上がってくるわけだから、僕が何を言えるだろうかいや言えない、という話ではあるんだけどね。
 
で、『ベルギー奇想の系譜』@Bunkamura ザ・ミュージアム。
fantastic-art-belgium2017.jp
奇想云々はキャッチーななにかだろうと踏んでいたので、その辺はわきに。ブリューゲルも何点か出ているとのことだったので、それをメインに考えていた。というのも、昨日たまたまFather John Mistyの名前を耳にした影響でFleet Foxesのことを思い出していて、そうなると『ネーデルラントの諺』をジャケットにあしらったあの1stじゃん?というようなことを考えていたから。でも結果的に強く印象に残ったのは別のところだった。

ヴァレリウス・ド・サードレールの『フランドルの雪』これが大変に素晴らしかった。ブリューゲルが描いた雪景色を視野に入れながらも、カンバスの大部分が暗い空で覆われ、そして(これがブリューゲルのそれとの1番の違いなのだろう)いっさいの人間の不在。そのことで人智を超えた大きいものを表現している、というようなキャプションがついていた。ほぼ同じようなことを感じていた。展示を見進めるうちに、これまでは人間あるいはそれに類するものが描かれている絵画の方が好みであったはずなのに、どうやら今の僕はその人間の「不在」というものにピントがあっているようだということに気が付いた。フェルナン・クノップフの『ブリュージュにて、聖ヨハネ施療院』もそうだし、ウィリアム・ドグーヴ・ド・ヌンクの『黒鳥』なんかに惹かれたのも、確かに人は不在なのに「誰か」がそれを見ている、だからそうなっているというふうに思えてしかたがなかったからだ。フェリシアン・ロップスの『踊る死神』を観れたのも大きかった。圧巻だった。不勉強だったがボードレール周辺の人らしい。主題も含めてなるほどと思った。
 
とまあ楽しんだのだが、本丸はこっちだった。
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www.parco-art.com
OMOIDE IN MY HEAD状態の人々であふれていた。控えめに言って最高のKIMOCHIである。間違いなくシブヤは炎上していた。「向井秀徳展」という文字列だけで半日くらいゲラゲラしたのちに3日くらいニヤニヤしていたのだけれども、やはりどうしたって思想や美学のある表現は抜群にかっこいいのだ。でもThis is 向井秀徳グッズの乱打は流石にひざに来た。
 
井の頭通りを歩きながら結局僕はいろいろなものに間に合わなかったのだなとの思いを新たにしていた。アーカイブ化されフラットにアクセスできるようになった時代の恩恵にあずかりながらも、そのことによってまた同時に殺されたりもするのだろう。動き、声、警官。外国人、カメラ、ぴかぴかネオン、真っ黒な空。そして皆に見て見ぬ振りされている足元。この街に渦巻いているエネルギーの残り香は、確かに僕に「二度と来るか」と思わせるほどには強く漂っているのだった。曇天にうんざりの今週はここまで。
 

2017年8月8日の解題

▼体調を崩しております。みなさまもお身体にはくれぐれも。以下、7月の改題でございます。
 
 
1.透
 
手のひらを透かして見ればドロドロと齢30ぼくの血潮よ
 
・下敷きにしたのはもちろんあの歌。生命賛歌なのだからそのテンションの高さは当然とはいえ、「手のひらを太陽に透かして見れば 真っ赤に流れる僕の血潮」の跳躍力は暴力的だと思う。さて、ドロドロとしているうちはまだましで、手のひらを太陽に透かして見ても向こう側が見えなくなってしまったらいよいよ棺桶に片足を…のサインです。生活を改めましょう。なぜなら、僕らはみんな生きているのだから。
 

  
2.ホイップ
 
ホイップはウィップクリームなんだよと得意気な顔おさらをとるね
 
  
・愛とは矛盾を容認することだから。 いつも僕は僕へそう語りかける。正確にはWhipped creamだねと出かかる声をよだれとともに飲み込んでは微笑み皿を取る男。彼が買ってきたシュークリームは彼女にとって日常で、彼女との日常は彼にとっていつだって、なんだって、そうそのすべてが、非日常。
 
 
 
3.果
 
頬を伝うそいつとともに食べなと「100エン」が言う青果店にて
 
 
・青果店のあの「100エン」の値段表記というのは、いわゆるポップとも違う異常な怪力を秘めていると感じることがある。こちらの気持ちなんてお構いなしの力強さ。それが心地よく思えるうちは、いや、思える時にしか、商店街へは行かないのだ。
 
 
 
4.ペンギン
 
鳴らしてよペンギンカフェ・オーケストラそれは大したことじゃないよと
 
 
・「The sound of someone you love who's going away and it doesn't matter」が聞こえてきてしまったら僕らになすすべはないのである。
 
 
 
5.短夜
 
短夜は寝息をたてりエフエムは挨拶ゆらぎ熱気の萌芽
 
 
・これはここに着地するまでいろいろあった歌である。要は、短夜が眠りにつくころというのは朝の始まりであり、その狭間の頃のラジオにおける挨拶の混線が僕は好きなのである。そして、短夜が本当に短いときはその挨拶のころには早くも蝉がうっすら鳴いていたりして、ああこうして今日も夏をやるのだなと感じるのだ。
 
 
 
テーマ詠「あつい」
 
パンたまごパンハムレタスパンたまご…持ちより笑う声は川面に
 
 
・最近とみにピクニックへの欲求が高まっており、だが誘う相手がいないのだった。遊びに行こう、は言えてもピクニックに行こうは…!まあ夏の暑さを言い訳にして、計画は適当に先延ばし。それで、「あつい」と聞いたときに最初に思ったのが「幽遊白書」の「あ、ついでに…」だったのだけれども、それを詠うのは無理があった。それで、その次に頭をよぎったのがぶあついのから細かいのまで大小さまざまなサンドイッチのことだったのでこれにした。水面に、の方が滑らかだったけど、そこが川であることが重要だったのでくどいほど強調することにした。それにしても、行きたいなあ、ピクニック。
 
 

2017年8月2日の断片日記

▼「夜が始まる」と、そう思える人生を歩んできたかった。振り返ってみればいつだって夜はやってきては終わってしまうものだった。朝もそうかもしれない。それが始まると思えるのかやってくると感じてしまうのか、その違いは大きい。もちろん、僕にとってノスタルジーは中指を立てる対象であるのと同じように、過去のことに対してああすればよかったなどと思ってみたところで、仮にもう一度あのころに戻れたとして同じような選択をするはずなのだった。果たして人間が同じであるならば。それでも過去にしか未来はないからこそ、そんなことをぼんやりと考えてしまうこともあるのだった。
 
 

短歌では、小さいものを詠うのはやさしいが、大きいものを詠うのはむずかしいとされる。たとえば、海に浮かぶ小舟を詠うことはできるが、ただ広い海だけを詠うことはむずかしい。

生と死が創るもの (ちくま文庫)

生と死が創るもの (ちくま文庫)

 
短歌に限らず、僕はどうしても自然や風景というものを大きく(≒ただそのまま)描写するのが昔から苦手で、それは用いるのが言葉であれ絵であれそうなのであった。読んだり見たりするのもそうで、小説や物語が上手に読めないのはそういう自然描写がスムーズに自分の中に入ってこないからであったし、絵画にしても好きになる絵は人間(あるいはそれに類するもの)が描かれているものがほとんど(『雨、蒸気、速度-グレート・ウェスタン鉄道』などは例外なのだ)だった。「見ればそうなる」ということから見る主体を切り離し、そこにただあるということ、そこから立ち上がってくるものを受容する能力が欠けていると感じることが多い。わたしのせかいに、あまりに長くいすぎたということなのだろうか。
 
 
柳澤桂子はこの著書『生と死が創るもの』の中で土屋文明について

 文明は人間の神経系の働きに反する方法で、なおかつ人の心に訴えることに成功した数少ない歌人のように思える。成功の陰には、徹底した自然の写生詠の積み重ねがあったのであろう。また、何がひとを動かすかを直観的に悟る能力ももっていたと思われる。
 彼は、それまでの自然観照を主とする短歌の世界から離れて、人間の生活を通して人間そのものを詠おうとした。そこには、生と死、人間であることの寂しさ、孤独が通奏低音として流れている。

と記している。現代において、つまり「わたしのせかい」が「わたしのせかい」だけのものではないことが明らかになってしまった時代の中で、純な自然観照というものがどれだけ可能で、仮にそれを「ただあるもの」として提示できたときに、あるということそれ自体を慈しみ受け取れる人間がどれほどいるのだろうか。


▼それを可能にする人(たち)は、いるところにはいるのだろう。だから自らの欠落を棚に上げて何かを批判したり全てを時代のせいにするつもりなんて毛頭ない。ただ単に、僕がそれを不得手にしている以上、それを克服するためにはどのような方法があるのだろうと考えているところだという話で。そんなの放っておいて好きなように見ればそうなるを行けばよい、というのも一理ある。だが、たびたび「あおいさんって変わってますよね」というような評価を(決して否定的な文脈ではないにしてもだ)もらうたびに、その自然観照そのものあるいはそれに似た力の欠損がその評価の出処なのではと、あまり気持ちの良い感じがしないのであった。


▼その根底には「称揚された"個性"なんかクソくらえ」だと思っていた20歳そこそこの僕がまだいるのだと思う。この言葉とは本当に食い合わせが悪い。もちろん個性は尊重されるべきだ。その意見には全く異を唱えるつもりはない。僕も殺されてきた側の人間だ。だが、いやだからこそ、一時期病的なまでにもてはやされた「個性」信仰のせいで窒息していったあれこれを見て感じてきた身としては、「他と違っている」ということがあえて言及される場面においては、それが好意的な評価であれ何であれ嫌悪(そしてそれはしばしば自己にも向けられる)の念を抱いてしまう。誰かが誰かと違うことなんてあえて言葉に出すまでもなく当たり前なのだ。わざわざそれが表に出てくるときというのは、きっとそれは何らかの不足を指摘する思いのすぐそばにあるのではないか。もし仮にそうならば、「個性」などといった変質してしまった言葉で包んで曖昧な態度を示すのではなく、その不足を克服する方法を教えてくれよと思ってしまう。そのままでいい、だけでは解決できない現実があるのだ。(現実の方を改変すべきではあるのだが、それと自己の不足を補おうとする意志を放棄するのはまた別の話。苦しみは他者との比較だけからやってくるのではないのだ)
 
 
▼神様は誰も見ていないところを見ている。きっとその眼はただ見ているのだと思う。だからこそそれらはただそこにあることができるのだ。だとすると、時代が進むにつれて人は神様の眼を少しずつ失い、自らを自らの神として宿すようになったのか?僕なりに神様の死を言うならばそういうことになるのかもしれない。
 

▼そうなると、自分はどうやら人間は神様を分有している(いた)存在である、人類が神様を生み出した理由はそこにあるのではないかと考えているようだというところに行きついて、いま、とても驚いている。