2017年の断片的な目次

日々に目次をつけていきます。その日の日記とは関係のない場合が多いです。「僕の」目次なのかもしれません。
 
 
・ 4/ 9 「ごはんのお供」という表現 
・ 4/10 このお礼はいずれ、精神的に。
・ 4/11 これはあおいさんのためじゃなくて、わたしのためなんです。
・ 4/12 ただいまの気温19℃
・ 4/13 前よりしなびたんじゃないですか
・ 4/14 そのために電話くれたんですか?
・ 4/15 結局、昨日カレーにしたのかなあ
・ 4/16 waste of timeだな、つって。
・ 4/17 何で行っちゃうの?ってそりゃあ、お迎えが来たから。ね。
・ 4/18 ちょっと待ってて
・ 4/19 Yogee New Waves / Like Sixteen Candles
・ 4/20 ロメインレタス
・ 4/21 がんばってでますね
・ 4/22 キリンジ / エイリアンズ
・ 4/23 都会っ子の余裕
・ 4/24 「How does it feel」の発音
・ 4/25 良くない日だった
・ 4/26 「都立が丘」という駅で突風と洪水に見舞われ、流された先の映画館の屋上から街が海になるのを高校生たちと見続けるという夢を見た。
・ 4/27 遠くへ行きたい どこへも行けない
・ 4/28 ますますのご活躍を
・ 4/29 ピエロ
・ 4/30 尋常小学校を見に行くことを思い立つ

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2017年10月9日の断片日記

▼学生の頃に過ごした街に来た。
 
 
▼最初どういうつもりだったかというと、件の10年の記事が次で終わるから、じゃあその10年と少しの始まりにあたる頃に過ごした景色をあらためて見ておいたほうがいいのでは、という控えめに言っても大変にエモい理由がそこにはあって。それで世の中も休日(しかも連休じゃないか!)だってことを完全に忘れて、いつも通り悠々と券売機に向かったら立席オンリーの表示…立席ってそれは席なのか…あいやでも立ち見席、て言うもんね…。そもそも自宅の最寄り駅からずっと立って来たのにさ…ということでトータル3時間ほど座ることなく移動。まあでも普段と違う新幹線の乗り方が出来たので良かったと思うことにする。(だが実は帰りもそうだったので、なんだかなあという感じである)
 
 
▼かの地の駅に降り立ったときには当初の心もちはどこかへ消えていて(それでもよく行ったレコードショップをのぞきには行った。無くなっていたけれど。)、その代わりにやはり将来住むならまたこの地なのだろうかとぼんやりと考えていた。昼時でどこの店も長蛇の列だったので食事は早々にあきらめる。まあそれ自体はどうってことないことだ。みんなの合格祈願と自分の学業についての祈りを神社で済ませたあと、ぐんぐんと歩く。姿勢よく、空気をたくさん吸って、吐いて。
 
 
▼大きめの公園に出る。住んでいた頃には一度も来たことがない場所だ。トーキョーに出て、どこからを「遠い」と感じるかという距離の感覚が確実に変わったと思う。噴水の近くで恋人たちが身を寄せあい、何事かを語っている。その後ろをティーンネイジャーたちがスケボーや自転車で通り過ぎて行く。開けた場所に出て、ベンチに座って風を感じる。たくさんの家族が芝生の上で思い思いに過ごしている。スポーツ…野球よりサッカーの方が優勢だろうか。遠くにはバスケットに興じる少し強面のお兄さんたちが見える。お兄さんって言っても、きっと僕より年下なのだろう。ふとこの街にはプロのサッカーチームも野球チームもバスケットチームもあるということを思い出す。
 
 
▼バドミントンに興じる3人組の女の子のうち、ひとりだけ明らかに頑張ってる女の子がいて、その真っ赤な紅は向こうでよく見るよ、と心の中で話しかける。その子は途中で抜けてはスマホシャトルが舞う円形との間を行ったり来たりしていた。女の子といえば、縄跳びをしている子が多かったかな。男の子で縄跳びをしている子はいなかった。不思議だ。そしてやはりちびっこの動きはむちゃくちゃで、最高だ。
 
 
▼子どもを育てることになったら…ということを考えて、やはりここはとても良い場所だというふうに感じた。でも…いくらネットでフラット化が進んだとはいえ、ここは昔からポップカルチャーの空気が希薄だ。あの頃の僕の苦しみの一端はそこにあって、それでトーキョーに出てから強く感じたのは「東京」に住んでいる人間と「トーキョー」にしか住むことのできない人間との圧倒的な情報量の差だった。そこにコンプレックスめいたものは今更特にない。ただ単に、浴びているものに絶対的な差があれば、それはもう形作られる人間自体が変わってくる。「東京」に住めばたぶん「トーキョー」が見えないし、逆もまたしかりだろう。まだ見ぬその人は、そのことをどう感じるのだろうか。
 
 
▼文化が都市をつくる。そう小沢健二は語っていて、僕はそれを最初聞いたときに大学の文系学部縮小関連の話題のことを思い出していたのだった。あの話題は本当に悲しいものだった。そのことがもう一度学生になることを間接的に後押ししたところがあるかもしれない。哀しくて悔しくて、この野郎と思った。文化と芸術を自分の手でしっかり抱きしめておかなければならないと思った。自分が生活に浸食されず、人生を歩もうとするためにも。
 
 
▼街や都市の表情を見る。そこには確かに生活がある。でもその生活の場である街や都市は、文化で成り立っている。今住んでいる街も、学生時代を過ごした街も、そして無くなってしまったあの街も、見ればそこには文化があることが分かるし、分かった。それはきっと人間だって同じなのではないか。どの街に住んで、どんな人たちとかかわって、どんな人と恋に落ちるのか。いうなればそれは全て文化の選択だ。教養や知識や経験は、それら文化の選択に自由であるためのものなのだ。そういう極端なことを考えはじめたころ、「帰ろう」と思った。文化のない街ができ始めている―それは予感でしかない。仮にそれが本当にそうだとしても、それはきっと時代や人々の要請であるのだろうから否定できるものではない。でも、自分は選択をしたい。自由であると、信じられる程度には。
 
 

新幹線の車窓から地方都市の夜の風景を見る。明かりがついているビルはもとより、寝静まって明かりの落ちた家々も、すべて営みだなと感じる。その途方もなさに気の遠くなるような思いと甘美な憂鬱さがやってきて、最終的には愛おしさを覚える。旅の何よりもこの時間を好んでいるかもしれない。(2017.5.4)

帰りの新幹線でこのときと同じ感慨を抱いた。でもその日はこのときよりももっと「明るさ」というものに感じるものがあった。昔はあまり思わなかったけれど、もしかしたら僕は寂しいのかなとか疲れてるのかなとか思うことが増えた。いや、昔から思っていたのかもしれない。忘れていくものだから…。「かわいそうな人」と僕を呼ぶあの人と君の声が耳奥に。口のはた、ゆがめてしまう。立席仲間(そんなものいない)に気づかれないように窓の外を強めに見て、1日を反芻する。学生時代に通い詰めた書店は今では違うチェーン店が入っていて、品ぞろえもずいぶんと変わっていた。別フロアには表参道にある店のポップアップストアが出ていてたくさんの人が並んでいた。僕は自分が思った「帰ろう」の自然さを思い出していた。
 
 
▼あの人から連絡が来ていたので返事をする。そのコが話していたあることを思い出してそれに関してメッセージを送る。それでも新幹線を降り、丸ノ内線に乗り換えるころには「今度会ったら話そう」と思ってぜんぶ投げ出してしまった。こういうふうに無邪気に明日が来ることを信じている様が意識の上にのぼってくると決まってこれまでの僕とこれからの僕が離れて行く感じがして居心地の悪さを覚えるのだった。
 
 
▼最寄駅に降り立つ。今日のこれが全部他人の夢だったらいいのになと改札を抜ける。文化を感じながら家路に着いた。
 
 

重ねられた生活 20170930~1006

0930(Sat)

相変わらずクソみたいなことが仕事で降り続けていて、以前所属していた場所での8年間のクソの総量をこの4ヶ月で更新したような気分だ。顔の微妙な痙攣は続いている。もうしばらく様子を見てダメなようなら神経科に見てもらうつもりだ。
 
夜。肌寒さと「それでももう少し寒い方がいいよね」を共有して歩く。互いに微妙に調整が難航していたのだけれども、ようやく出かける日取りも決まった。お店、どこにしようかな。相手を知る過程が楽しい季節がまたやってくるとは思わなかった。「嫌になるほど誰かを知ることはもう2度と無い気がしてる」はずだったのに。もちろん、これが「嫌になるほど」までのことになるかは分からないけれど。他人にあまり興味がない者としては、ずいぶんと、ずいぶんだなと(なんなんだ
 

小沢健二 - さよならなんて云えないよ

(ほんと、つらく美しい曲だ…!)
 
それにしても、事が「普通に」進んでいっていることが奇妙に思える。(1回目の)大学生のとき以来?の普通さ。いや…今までのがおかしかったというか、特殊だっただけなんだけど。「君がいないことは君がいることだなあ」か…。普通の女の子との普通のかかわりのたびに君との日々あるいは君の在り方というものに畏怖に近い感情がわいてくる。だけど、そのコに惹かれていることだけはそれとは無関係に間違いないわけだから、そのこと自体と、それから当然相手のことを大事にしたい。「任せてください!何でも言ってください!」と笑う姿、似てなくて安心する。これはどういう安堵なんだろう。ほんと、自己嫌悪だ。
 
 

1001(Sun)

再び学生という身分になったからといって、勉学に勤しむ時間以外の何が変わったわけではない。気を引き締めて、身体に気をつけていきたい。うむ。
 
サニーデイ・サービスのベスト盤があって、アルバムはB-sideベストも含めて全部持ってるからといって買ってなかったんだけど、ついに手に入れた。

サニーデイ・サービス BEST 1995-2000

サニーデイ・サービス BEST 1995-2000

 
リマスタリングが素晴らしくて、とくに初期の音源は感動ものだ。それにしてもその後ソロ1stで収録されることになった「真昼のできごと」のザ・サニーデイなアレンジがすごくてくらくらしてしまう。曽我部さんはいつかサニーデイのことを「スノードームのようだった」という話をしていたけれど、まさにそんな感じ。最終的に『24時』から外れたのも分かる気がする。本当に。「96粒の涙」の『東京』を引きずったようなALT ver.もびっくりだ。これはこれで好きなんだけど、『愛と笑いの夜』がああいう作風になったことにもちゃんと意味があったんだなと当たり前のことを改めて感じる。『東京第2幕』みたいなことじゃなくって。さ。
 
 

1002(Mon)

終電で部屋に戻ると、年末に『Popcorn Ballads』のフィジカルリリース、そして夏の日比谷LiveのDVDも同時に出るとの報が。それだけで1日中蓄積し続けた憂鬱さが霧散していくようで、涙が出そうだった。楽しみだ。あの夜は本当に最高だったから、完全収録だといいな。
 
rose-records.jp
 
 

1003(Tue)

新宿から3駅分くらい歩いたんですけど…という話をムニャムニャとした心もちで聴きながら、「そういうのって良いよね」という言葉が無意識のうちに口をついていた。そのことが何だかたまらなく嫌だった。結論ありきでしゃべっている感じ。いや、無駄に歩くとかそういう試みをするっていうのは本当に良いと思うし、実際僕もたまにやる。まあ僕の場合は散歩が好きだからっていうのもあるんだけど…。それで何が嫌だったのかなと考えてみたら、きっと<自分>が話している感覚が無かったからなのかなと思った。それが役割であれなんであれ、言葉はちゃんと僕の中を通って出てきてほしいと思う。僕が発した言葉の責任は、僕がとるのだから。もちろん言葉は僕からしか出てこないのだけれども、僕を経由しない言葉というのが確かにあって…。
 
  

1004(Wed)

このコは、丁寧で親切で気のきく大変に良いコではあるんだけど、そういうところが好ましさの一番の理由ではなさそうだと思いいたる。ではどこにあるのか。このコはなんだかしらんが自分についてヘンな部分で「えーい」と全部を放り投げてしまうようなところがあって、そのマジカルな瞬間へのゆだね方というか、そういう無限と自由を感じるためのふるまいというのが僕には全然できないので、そこがとっても素敵だなと思うのだった。だからそういうことを「伝わるような言葉」で話した。
 
「いやー、そゆとこ、だめだよなあって思うんですよね。思うんですけど、でもまあいいかなあって」
「そこだよ笑 でも実際、それでいいと思うよ。僕は好きだな、その辺。そのままでいて欲しいもん」
「じゃあ、あおいさんが良いって言うので、このままでいますね~」
 
僕も自分のことについては寸前のところで放り投げるようなことをたまにするんだけれども、それでもそれはどちらかといえば「折れる」に近い感じだから、このコがやっていることとは根本的に違っている。執着のなさに憧れる。わたしのせかいを深化させていく方向と、軽やかさでもって内部を拡張していく方向とでは、どちらが遠くへ行けるのだろう。そういうことを考える。
 
 

1005(Thu)

しばらく前から見ていた『オレンジ・イズ・ニュー・ブラック』がシーズン5まで来た。どっかのエピソードで『Breaking Bad』の話が出ていたけれど、この作品もなかなかテンションが落ちなくてよいのでは、という感じ。 
 
行き帰りに読んでいる『告白』への集中力が少し落ちてきていて、読む速度が遅くなっている。ただでさえ遅いのに。内容的には記憶論へと差し掛かっていて非常に興味深い。
 

ですから、私が記憶を記憶する場合には、記憶そのものがそれ自体によって記憶それ自身に現存していますが、忘却を記憶する場合はこれに反し、記憶と忘却とが現存しています。すなわち、それによって私が忘却を記憶しているその記憶と、それを私が記憶している忘却とが現存するのです。しかし忘却とは記憶が欠けていることではありませんか。では忘却を記憶できるために、それはどのようなしかたで記憶に現存するのでしょうか。もし忘却が記憶に現存するならば、記憶することはできないはずではありませんか。
 
アウグスティヌス 山田晶(訳)『告白Ⅱ』中公文庫 p.266

 
このアポリアに対する批判的考察とそれに対する反論のようなものも注釈には記されており、勉強になる。丁寧な仕事だ…。

 
 
録画した小沢健二の出演した『SONGS』は休みの日に大事に見て、考えようと思う。
 
 

1006(Fri)

雨が降った。気温がぐっと下がった。いいぞ、と思う。このまま寒くなってほしい(天気予報を見る限りそれはなさそうだが)
 

では、神よ、わが真の生命よ、私は何をしたらよいのでしょう。私はこの記憶と呼ばれる自分の力をもこえてゆかなければなりません。甘美な光にてましますあなたにいたるために、記憶をもこえてゆかなければなりません。何をあなたは私にむかっておっしゃるのでしょうか。そうだ、私はわが上にとどまりたもうあなたをめざし、わが心をとおして上昇し、記憶と呼ばれるこの自分の力をもこえてゆこう。
 
アウグスティヌス 山田晶(訳)『告白Ⅱ』中公文庫 p.272

 
記憶を越えたところに神はいる。ゆえに神を見いだしそこに至るためには記憶すら越えてゆかなければならない。でも記憶にないならば、記憶の外にいる神を私たちはどうやって見出せばよいのか。それは神である、などと、どのように言えばいいのか。
 
例の記事のdisc9の項で、2013年ごろの日記を引用した。僕はその当時「わたしのせかいの君は君ではないと言えるのならば、僕は君が何であるかを知っていることになるのではないのか」ということを考えていたのだけれども、それと類似したものがここにはあるように思える。
 
それで…だれもがわたしのせかいに住むのだとするならば、<それ自体>を見ることはできないのではないか。一方で<それ自体>がなければそれぞれのわたしのせかいにおける<それ>は成り立たない以上、<それ>を<それ>たらしめるための視線がそこには注がれているはずで、それが「誰も見ていないところを神様が見ている」であり、「見ればそうなる」、そしてそれゆえ神様は瞬間であり永遠であり…書きながらこの話、最近したなと思った。戻ったら9/11の日記に書いてあった。1か月前か。
 
1か月前と言えば、君からきた謎のメッセージからひと月経つ。案の定その後音沙汰なし。僕の返事も空を舞っているに違いない。本当に不思議なひとだ。君にもどうか、そのままでいてほしい。そんなこんなで今週はここまで。人生が流転している感じがする。
 

サニーデイ・サービスがそばで鳴っていた僕の10年とすこし disc9

▼現時点での彼らのキャリアのうち「優しい」と形容できる作品があるとするならば、この1枚をおいて他にはないかもしれない。曽我部さんのソロ作などとの壁が融解したかのような曲もあることも含めて、 そういう意味では異質な作品といえるかもしれない。その一方で、果たして「サニーデイ・サービスらしい」というパブリック・イメージ通りの曲が並ぶのもこの作品なので面白いところである。
 

『Sunny』(2014)

Sunny

Sunny

 

日常へ。

▼2013年、14年ごろの自分は、年齢の節目が近づいていたこともあって何となくあせり始めていた。君とのおかしな関係も、何度目かの別れと出会いの折に、いままでは感じなかったような漠然とした不安を抱いていた。それでもちょうどこの頃がその関係に甘美な何かを感じとっているピークの季節だったのも確かで、だから僕は「道化」というモチーフをよく用い、君の実在性に疑義を投げかけたりしていた。そこから少しずつ、人生の領分を生活が侵食し始めて、君との関係だけではなく自らの歩みについても分裂気味な想いを抱かざるをえない状況に陥っていたような気がする。
 

仕事終わりに食事をして、終電へと送り届ける。改札の前で彼女は「それじゃあ、先に行ってるね」と言った。確かにそう言ったのだ。僕は感動のあまり言葉もなかった。それじゃあ、先に、行ってるね。先に、先に、先に。忙しさのあまり手放しかけていた敗北主義や「それでも」が熱を取り戻していくのが分かった。そう、「変わり続ける君を変わらず見ていたいよ」の季節。
僕らは次に会う日を約束して別れた。また他人に戻るんだなということを慎重に確認しながら。こうして別れたりつきあったりを繰り返している限り、永遠はないということを何度も何度も受け取り直すことができる。そのうちに、必ずや全ての時系列はフラットになり、瞬間が見えてくる。(2013.01.07)

 

他者とかかわっていく上で重要な認識の一つに時間についての捉え方、捕まえ方があるだろう。我々が共有できる(と信じている)のは場そのものであって、各々が時間に対して抱いている思いや、あるいは見ている景色はそれぞれ別のものである。ゆえに、たとえば流れや速度のような簡便なものを一つ取り上げたとしても(簡便であるからかもしれない)その強大なうねりのまえに、いったい目の前の人間と何を成せるのかと途方に暮れてしまう。だがその途方に暮れるという前提に立った上で、それでもなんとかせねばと立ち向かうところに他者と交わることの何らかの意味性が生まれるのであって、その認識の有無は本当に、大きい。あまりにも、大きすぎる。少なくとも僕にとっては大問題だ。つまりは、焦燥感にさいなまれた青年と繰り返しに苛立つ彼女との間の壁を僕らはいかにして乗り越えていくことができるのだろうということである。(2013.02.21)

 

君は僕を媒介とすることでなんとか関係修復の糸口を見出すし、あのこは僕を乱暴に扱うことでようやく立ち上がる。あの人はそんな僕を労わるそぶりを見せながら、隙を見せる。僕はそこに優しい言葉を選択して添える。心は灰色。恋は桃色。だが、僕がいなければいないで彼女たちはよくやるだろう。それでこそ道化だ。わずかばかりの僕と関係する人や、僕の目の前で起きている出来事は、すべては実在しないもので、それは世界認識の問題であり本当は僕の内側にあることだ。つまりはインナーキングダム。外の出来事がどうであろうと、本来的には知ったこっちゃない。僕が死ねば僕の世界は終わる(2013.12.01)

 

僕の最後の日々に、君は何を思うか。君は僕に理由をくれるが、君自身を僕は説明することができない。わたしのせかいにおける君は君自身ではない。君自身にたどりつく過程において、わたしのせかいそのものを見つめるというアプローチで獲得された「わたしのせかいにおける君が君自身ではない」という感覚は、君自身が何でないかのひとつの証明であるが、何でないかを証明するためには君自身が何であるかをどこかで理解している必要がある。思索し、内部と対話すること、過去に死んでいった自分の墓をあらすこと、受け取り直すこと、能動的な愛…それらすべての中に答はあるのだろう。僕は知っているはずだ。君自身が何であるかを。(2014.8.26)

 
だからこそ、この作品で描かれていた日常のあり方に心はなだめられたのである。

さみしくはないのさ 悲しくはないのさ ただ海の青さに ゆられていたいだけ
 
アビーロードごっこ」

  

Sunny Day Service - 愛し合い 感じ合い 眠り合う【official video】
 
 
そして生活の手前とその先にある日常へと回帰する中で「見る」ということへの憧憬は、徐々にオブセッションめいたものへと姿を変えていくことになる。ルドンの『わたし自身に』を読んだのもこのあたりだ。
 
 

夏は行ってしまうもの

▼そんな日常への回帰の中で、四季との付き合い方を考えていた。春は訪れるもので、夏は行ってしまうもの。秋は見つけるもので、冬は迎え入れるもの。そんなふうに今は考えるわけだけれども、その出発点になったのが<夏は行ってしまうもの>ということであった。その感覚を教えてくれたのは『愛と笑いの夜』に収録されていた「海岸行き」なのだけれども、その感覚を言語化してくれたのは本作に収録されている「夏は行ってしまった」だろう。
 

Sunny Day Service - 夏は行ってしまった【official video】
 
 

『PINK』(2011)

PINK

PINK

 
▼ところでこの分裂気味な2014年ごろの状況を語るに避けて通れないのは、やはりあの震災で。disc8の項でも書いたとおり震災は自分を宙ぶらりんな位置においてしまった出来事でもあって、そのことによる葛藤が君との関係以外で自らを引き裂いた一因になっているのは疑いようのないことだった。その心を落ち着かせた楽曲の1つに曽我部さんのソロ作『PINK』に収録されている「ねぇ、外は春だよ。」があった。そしてその『PINK』で鳴っていた「ふつうの女の子」は普通ではない君との日々の中で優しく響いていたし、「一週間分の愛」はその後の日常への回帰へとつながる音だったのは間違いなかった。そのことをここに記しておきたい。

『超越的漫画』(2013)

超越的漫画

超越的漫画

 

分裂する自我をつなぎとめるもの

ある種の人間にとって愛は病そのものである。そしてその愛に殉じるとき、愛は救いであり、恍惚である。だがそれは彼が病人であり、狂人であることの証でもある。愛は人を救い、愛は人を殺す。(2013.05.16)

 
▼この頃は偏執的だったように思えるし、「狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。」というのはG.K.チェスタトンの言葉だが、ある意味では、君との関係に理性で整合性を持たせようと何かにとりつかれたかのように過ごした日々は、確かにここでいう狂人のような感じだった。そこをぶちぬいて僕の社会性を担保してくれたのが2013年の「バカばっかり」だった。これがあったから、その後の『Sunny』を日常として受け取れた。
 

曽我部恵一 - バカばっかり【official video】
 
▼いずれにしてもこの頃必要だったのはきっと日常の言葉づかいであり、「日々が続いていく」という確信だったのかもしれない。だからこそ、彼らの音楽が素朴な言葉で鳴っていたという事実はとても重要なことだった。
 

「お帰り。」「…どうして、お帰りなの?」(2014.9.17)

一方で君はこんなにも簡単に僕を瞬間の切れ端へと導いていくのだった。
 

Sunny Day Service - One Day【official video】
 
 
etlivsfragment.hatenablog.com