2012年5月19日の日記

13歳の頃の僕は哀しかっただろうかと思った。恐らく、そんなことはなかっただろうと思う。当たり前にローティーンであったし、当たり前に愚かであった。ごくごく普通に、満たされた生活を送っていたはずだ。その後革命へと歩みを進めていく上で重要であった回収装置を知らず知らずのうちに選択していたことだけが、財産だったかもしれないが。

僕はもう10代に戻ることはできないのだ。その事実に抗うつもりは毛頭ないのだが、それはすごく哀しいことのような気がする。10代に戻ってやり直したいだなんて、そんなばかげたことは考えたりはしない。だが最近の僕の頭の中でぐるぐるしていることはティーンエイジャーのものだ。あの頃に、置いてくるべきものだった。だが恐らく、例えばかつての恋慕の感情がそうであったように、僕のぐるぐるのほとんが、その熱量と等価な言葉で語られてきたかといえば、決してそうではなかっただろう。回収とは、もしかすると供養のことなのかもしれない。僕が生きるということは、過去の僕への弔いであり、レクイエムだと、そういうことなのかもしれない。では、革命を成すとは?

言葉を大切にしない人間は万死に値すると言い放った僕に、別れの日取りが決まった恋人であるところの君は無邪気にいう。「ねえ、言葉を大切にしないって例えば?」まさに、だ。僕は絶句するしかなく、「ねえ聞いて」から始まる言葉に憂鬱な笑顔で耳を傾けるしかないのである。こうして僕は来たるべきその日まで、Pierrot Le Fouを地でいくことを決意するのである。

悲しそうだ。
あなたは言葉で語る。わたしは感情で見つめているのに。
君とは会話にならない。思想がない。感情だけだ。
違うわ、思想は感情にあるのよ。
それじゃ本気で会話してみよう。君の好きなこと、やりたいことは?僕も言うよ。まずは君からだ。
花、動物、空の青、音楽…わからない。全部よ。あなたは?
野望…希望…物の動き…偶然…わからない。全部だ。