2016年12月25日の断片日記

▼クリスマス周辺のことでいえば、以前は街の雰囲気が好きだった様な気もするが、この生活を始めてからはそんな風情も満足に感じられぬうちに過ぎ去っていく他の365分の1たちと同じような時間になっていた。そのこと自体はどちらかといえば好ましいくらいに思っていた。
 
 
▼90年代の異国の人々が、ツリーとケーキと七面鳥を囲んで談笑する映像を見た。祈りのための日があるということの素晴らしさを感じる。それは僕の勝手な印象で、その日が何のためにあるかなんてことは全く分からないのだった。それでも…祈りのための日、ということの可能性だけでも満たされる思いがある。どこかに静謐さを携えた、日常と時続きな部分と切り離された部分の同居するその日に、僕は何を、誰に、祈るのだろうか。
 
 
▼昔の日記を読み返してみると、少しずつ暗い方へ歩みを進めているのがよく理解できて、こうやって歴史になるのだなと思った。あとから考えてみればまるで全てそうなることが決まっていたかのように整理されるけれど、その時には自分にもその選択がどういうふうに転んでいくのかは分かっていない。それでも、たとえ何度繰り返したとしてもその選択以外はしないのだろうという理由や因果、説明をそこに見出しては納得しながら進んできているところはあるのだが。
 
 

wowee-zowee.hatenablog.com

5年近く前に、祈りについて少しだけ触れていたようだった。今でもその通りだなと思うのは、祈りについては祈ることそのものが目的になってもいいのではないかということだ。まったくひどい、本当にひどい出来事のあとに、空を見ることを思い出した。そして同時に、かつて僕が祈りの中にいたことも。あの最悪の日以来、僕は毎朝、毎晩、祈っている。もちろん具体的な内容もあるにはあるが、そのことよりも祈りそのものが平穏と静寂をもたらしてくれているように思う。実存としてのアウグスティヌス。彼は、教会での祈りの中で誰に出会い、抱かれていたのだろうか。