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2017年3月21日の断片日記

いうまでもなく本は単に読むためのものばかりとは限らない。というのは、読まれつつある時だけ本の効用があるのではない。いつでも読み得るということ、否いつでも楽に見ることが出来るということが、本の効用なのであるから、読まなくても何か所有するということに書物の意義があるのだ。本は手回りの道具であり材料なのである。それを用意することが本の所有の価値なのである。

 
珍しくとれたわずかばかりの休憩時間に文庫本の中を漂いながら、本の置き場所のことを考えていた。部屋のあちこちに本が「整然と散乱」していて、もういい加減にしなければならないのだった(まだまだ欲しい本は山のようにあって、それはつまりそれがさらに増え続けることを意味している!)。それでもそれらを整理するための新たな本棚を迎え入れるスペースなどはとうになくしている。いっそ戸棚の食器を全部捨ててしまってそこに放り込んでやろうかと考えたことは数知れず。それでもその企てはいつも計画段階で頓挫する。散らばった本たちはといえば、拾いあげられひとまず小さなカゴのようなもの(たくさん買ってきたのだ)の中で眠らせているのだが…。
 
 
▼どうせ部屋でとる食事なんてろくでもないものばかりなのだから、実際には食器を捨ててしまっても生活上困ることは今のところないのだけれども(炊飯器は捨てた)、それでもすんでのところで僕をとどまらせるのは、食器というものへの嗜好である。紙皿や紙コップだと何かが毀損されたと感じるほどに気高い精神を持っているわけでもないが、食事をするための皿、器、グラス…というものに途方もない何かを感じてしまう。陶器単体としての美しさは正直分からないのだが、料理が(それがどのような味・見た目であれ)よそわれるや否や輝きが増すような、それでいてあくまで主役は料理ですよというそのたたずまいのことを思うと、これらを捨ててしまうなんてとんでもない!と思う。のだった。値段に関係なく、食器の類にはそれがもれなく備わっている感じがする。(もちろん程度の差はある)
 
 
▼本について少しずつ処分したり売ってしまったりという作業はしているのだけれども、冒頭で引用した戸坂潤の言葉のようなこともあるし、ロラン・バルトが言うように「分析は体系が完成したところから始まる」ということもあるわけで、とにかく今はまだまだ集めて読んでの繰り返しの季節なのだ。それと並行して再読も進めて行かなければならない。時間もスペースも足りない。せめて長生きしなくちゃね。うわ、考えているうちに今急に前向きになった。まあ、よいことだね。うん。