2017年3月31日の断片日記

▼ある対立が存在していて、僕は本来自分が立たなければいけない立場ではない方に肩入れしている。それでもその両方のどちらも実は間違っていなかったり、あるいはその両方ともが実は相手のことを考えた末の決断で…というケースもたくさんあって(そういうものの方が多いだろう)、そうなると僕個人の思いなんかどうでもよくなってしまって、とにかく口をつぐむしかないという状況に追い込まれてしまう。そうして僕が黙っているのをいいことに好き勝手言ってくるやつというのが両方の陣営にいて、なめんじゃねえよみたいなことを思ってしまう。正しさを問題にするからそういうことになるのだ。正しさというのは極めて個人的な持ち物である美学の一種だと考えている。だからある意味でそれはファンタジーだ。それなのに、あれがおかしいとかこれがおかしくないとか。そんなもん全部おかしいし、全部合ってんだよ。それぞれの「わたしのせかい」から眺めれば。だから正しさではないものを本当は問題にしなければいけないのにね、と悲しい気持ちになってしまう。
 
 
▼正しさに限らず人にはいろんな側面があるのが当たり前で、その場面場面で最適だと思われるものを選択している。僕らはその結果表出されたものを外側から見てまた様々に判断していくわけだ。自分でしている選択でもこれでいいという確証なんてないことだって多いし、「それを選択せざるを得ない」という非選択な選択だってあるわけだ。そうなると僕が今見ているそれをもってして、その人の人格に結び付けて判断を下すなんて暴力的な行為、僕には恐ろしくてできない。第一、統一的な人格というものを自分でも把握・掌握できていないのに、そういうものが存在するかのようにふるまうことにだって僕は抵抗があるのに。
 
 
▼WZの方に3月のまとめのようなことを書いた。あれは1カ月かけて少しずつ書き足していったものだ。だからどこかにいびつさが出ているはずでそれが僕は面白いなと思う。その月の最初の方に起きたことと最後の方に起きたことについて、表現としては別の言葉を用いるのが適切だったとしてもすべてが地続きで実は同じことなのだということがある。開いた扉の隙をついて転がり込んできたその「せかい」が僕の膝の上で静かに寝息を立てている間、冷え切ったその手を握りながら漏れ出していた感情にそっと触れてみた。僕は君のことを思い出していただろうか。それでもこれは、あの日々と本質的には同じことのはずなのだった。分かってはいるけれど、どうするかはまだ決めかねている。のだった。