重ねられた生活 20170916~0922

0916(Sat)

無理やり身体をたたき起して食いぶちを稼ぎに行く。こういう日に限ってわざわざ会いに来てくれる人たちがいて申し訳なく思う。いろいろ頂戴したりしては曖昧に笑って、役割のことを考える。
 
夜、少しの後悔をしながらそれでも優しさに救われる。一抹の不安がよぎりながらも、僕の悪い予感の精度はいったん脇に置いておこうと考えることにする。「嫌な予感がするよ。…でもきれいだ」の出番である。穏やかに、大切にさせてもらおう。今のこの気持ち、ほんとだよね。
 
 

0917(Sun)

熱は微熱まで落ち着く。調子そのものはすこぶる不良なままである。実は夢は毎晩見ていて覚えていないだけらしい。体調が悪い時に限って夢をよく覚えているのはそれだけ眠りが浅くなっているということなのだろう。眠るにもそれなりにパワーが必要なのだ。身体を休ませるにも、力がいる。
 
やっと「フクロウの声が聞こえる」の聴き方が分かってきたというか、いや、実際にはよく分かってはないのだけれども、並行世界のことや瞬間のことを考えているうちにようやく「流動体について」が自分の中で収まる場所を見つけた気がするので、それによって「フクロウ~」がどこに<ある>音楽かが感覚的につかめてきた気がする。
  
なんでここにきてファンタジーなんだろうと考えていて。いま「ポップ」をやるというのはそういうことなのか?うーん…なんて思いながら。それが鮮やかなただいまと裏切りを置いてまで、やらなければならないことなのか…言葉が都市を変えていくのならなおさら、とか。
 
 

導くよ!宇宙の力 なにも嘘はつかずに ありのままを与えてほしい

 

いつか混沌と秩序が一緒にある世界へ
いつか孤高と協働が一緒にある世界へ
いつか残酷さと慈悲が一緒にある世界へ
いつかベーコンといちごジャムが一緒にある世界へ

方々で言われている通りこれはどうみたって現実そのものって話で。だからそのチャイルディッシュでファンタジックなサウンドでそれを覆うのはどういうわけなのかしらって。もちろん、いつかというからにはこれはこれからの子どもたちのことなのだろうとは思う。それで…これは僕が少し前から何度か言っている「行く/行け」にも繋がってくることなんだろうなって。
 
もちろん子らだけでなく、僕らにもその覚悟を問うているわけで。だから…革命の意匠をまとうなら、確かに普段彼の音楽を聴かないであろう若い世代にも届かせる必要があって(だからコラボ相手として彼らの選択は間違いではないのだろうけど…)、そしてそれがさらに幼い「子」の世代が口ずさんでいる必要があって…とそういうことならばと理解はできる。理解はできるけれど、それでもこれではファンタジーあるいはいっときの高揚感として消費されてしまう可能性もあって…でも消費ではなく消化され日常の中で鳴り響くようになれば、それでこそ革命か、とも思わなくもない。きっとこの曲だけで何かが完結するわけではないのだろう。祝祭を帯びながらそれが祭事で終わらぬように、ハレでもってケを更新する、あるいはハレでもってケをいくためのケガレを浄化する…というような仕掛けをそこに読みとることもできる。とかなんとか、逡巡する。
 
もっとシンプルな話で、あの頃しびれを切らして「喜びを他の誰かと分かりあう! それだけがこの世の中を熱くする! 」と言っていたこと、それでももう一度やってみようということなのかな。そういうことが若い才能に触発されて動き出したのならば、素晴らしいことだなと思う。表現する力のある人たちにはどんどんそういうことをしてほしい。僕ら市井の人々は、その熱にあてられながらも、フクロウのように眼を見ひらいては首を回し、よく「見て」日々をゆくだけだ。
 
 

0918(Mon)

朝に書きかけた日記が「昨日と今日をつなぐ睡眠の」で途切れていて、いったいなんのことだかピンとこない。それでも僕は僕で、目覚めれば今日もあたしだった。
 
 

0919(Tue)

体調を崩していると、いかにストレスが多い状況なのかが手に取るように分かる。そんな中でも、言葉や音楽があるいは芸術が、何かを変えると「それでも」信じたいという気持ちがぼんやりと。
 
 

0920(Wed)

朦朧としながら朝から働く。休めないことが経済を回していると鞄の中の市販薬のことを思う。移動の合間に言い訳のような食事とともにそれを飲み込んで、こんなんじゃいつまでたっても…と思う。今年に入ってから体調を崩すことがかなり増えた。環境のせいだろうと思ってはいる。
 
夕刻、早く治してくださいよとはそのコの談で、先週はそれ僕が言ってたよなと互いに苦笑してしまう。ほんの少しだけ何かが違ったり、誰かと会う順番が逆だったりしたら、涙を見なかったり見せなかったりしていたら…きっと全然違うことになっていたのだろうと思う。だから今起きていることも起こしていることも、何かをきっかけにして霧散してしまうようなものなのだろう。「神の手の中にあるのなら その時々にできることは 宇宙の中で良いことを決意するくらいだろう」そう、僕らは選択をすることができるのだ。そういうことを考えている。 


小沢健二 - 「流動体について」MV
 
夢は並行世界をのぞき見ているものなんだって説、どこかで書いたっけ。実際には寝ている間に記憶を整理しているらしいから、きっとその整理の過程を見せられているだけなのだろうけれど、それでも自分が直接や間接にかかわらず接してきたものがそこには無造作に配置されているわけだから、並行世界の雰囲気はじゅうぶんにある。
 
郵便物を運びつつ、方向音痴なそのコの混乱を駅の方を指さしては笑った。その傍らではフィリーソウルが世代の壁を越えたおかげで世界の壁をも越えたことを考えていた。つまりは音と身体の動き、根源的な何かのことを。えへへと笑うその声を夜風に運ばせ、全てを発音して笑う君のことやシシシと笑うお嬢さんのことなどが頭の中を駆け抜けて行く。人を好きになるといろんなことを考える。そのための理由をずっと探していたけれど、開けた道に出たときに発されたその声が、理由だなと決まった。自分を納得させるのはむつかしいけれど、愉快だ。
 

Daft Punk - Get Lucky (Full Video)


【MV full】 恋するフォーチュンクッキー / AKB48[公式]
 
 

0921(Thu)

少しずつ不調は快方に向かっているのだけれども、今度は歯が痛みだしてつらい。虫歯ではなく、身体の不調の方からきているものらしいので、今しばらく我慢、ということのよう。あれもこれもストレスが原因なので、もう少しテキトーに仕事をしなければと宇宙のことを考える。そしてそんなことをしている自分をひとりで笑ってしまう。
 
名前を呼ぶこと、あるいは呼び合うこと。そのことの尊さは、以前に映画と絡めて書いた。

ラストシーンで詩織と亜弓は突然互いを「愛ちゃん」「純ちゃん」と本名で呼び合う。この瞬間、僕は泣いてしまった。それまではそれぞれの「わたしのせかい」に住まわせた存在に対して憧れとも恋慕ともつかない感情を抱いていた2人が、それを越えて1人の人間存在としての敬意を互いに抱いたことの表れだと思えたからだ。名前を呼び合うこと、すなわち現存在への敬意と尊厳、それこそが危機に陥った実存を再び立ち上がらせるものだったのだ。

wowee-zowee.hatenablog.com
 
名前なんて、社会生活を送っていれば普通に呼ぶし呼ばれるでしょってことではある。でもたとえば同じ「あおいさん」でも、役割としてのそれと実存としてのそれは伴う音声こそ同じでも、違う思いがそこに乗ることはある。あるんだよ。ぜったいに。そんなことを夜の帳が降りてからそのコに呼ばれたときに思った。
 
 

0922(Fri)

嫌なことたくさんあるけれど、これで明日からも頑張ろうって思えますみたいなコメントを沢山の人が書いているのを見て泣きそうになる。なんで日々に嫌なことがこんなにもあるのだろうねと。理屈としては嫌なことをいろんな方法で回避したりふたをしたりしながら生きて行かなければいけないのは分かってはいるのだけれども、そもそものあなたを責めるものというものの正当性に疑義がありはしないか?と思うのだ。みなが知恵を出し合うことで実は解決できることがまだまだあるはずだ。「これで何とか明日からもがんばれそう」…そう思っているときに静かに死んでいる何かは自分が思っている以上に大きなもののような気がする。考えることをやめちゃいけない。

神よ、あなただけが安息です。あなたはここにましまし、あわれむべき誤謬からわれわれを救いだし、あなたの道の上におき、なぐさめて、こういわれるのです。
「走れ。われつれゆかん。みちびかん。かしこに、汝らをつれゆかん」
 
アウグスティヌス 山田晶(訳)『告白Ⅰ』中公文庫 p.315

 
現実のことを考えるほどにここではないどかへと思考は流れ、夢や眼前にはないことを考えるほどにそれは現実へと流れついた。そんな今週はここまで。