2017年1月18日の断片日記

▼もたもたしていた。祈りを通じて反復する日々の中で、「その不在」が「自己の不在」と溶け合い、僕はまるでアシッドまみれのような状況に陥り、とにかく目と耳を塞いで自閉し続けるしかなかった。のだった。でもせっかく思い立ったのだからと、10日以上も遅れてようやく花を買うに至った。
 
 
▼ラッピングを待つ間、店内の花を眺めながら花屋にはもっと頻繁に足を運ぶべきだよなとぼんやりと思った。美術館に行ったときに「もっと日常の中にこの時間をつくるべきだよな」と思うのと同じだ。とか考えていたら、その近似は前にも日記に書いていたようだった。花を見るのはここ数年でフェイバリットな行為としての順位を大きく上げたもののうちの1つだけれども、そうか、花屋という手もあるのだな…。
 
 
▼君のお気に入りのお菓子をなぜか買ってしまう行為は4つで止まっており、捨てるタイミングを逸したままだ。その8分後に花屋に寄ることになる折、いつものコンビニの前でそのことが逡巡したが、あるいは思うよりも早く、横断歩道へ足を踏み入れていた。そこにもきっと意味があるのだろう。それでも今は意味を考えるのをやめてしまおうと冬の風が、お気に入りの靴が奏でる足音が、コーヒーショップで談笑中の母親の傍らで眠る赤ん坊の寝息が、語りかけてきた。
 
 
▼ていねいに包装されたブーケをパートナーに歩く道すがら、頭の中では「Raspberry」が流れていた。「結局二人お気に入り同士だからまた会える」…僕らがこの8年、別れたりくっついたりを繰り返して永遠はないことのアナロジーを愉しむ共犯関係の中にいたときに、いつもそこにあった曲だったように思う。数日前の僕が言っていた「引き延ばされ、伸びたテープのようになったモラトリアムの中でいまだに夢を見続けているだけ」というのは、本当にその通りなのだった。踊ろうよ、それですべてうまくいく…とブーケに語りかけながら、足取りそのものには確かな配慮が宿っていた。ぼくが僕の人生を見ていることへの嫌悪を少しだけ抱きつつも、偶然とはいえ結果的には優しさを強制的にインストールすることになったこのやり方は、コントロールの範囲を確かに作るような営みであり、つまりはLife is coming back!の体現であった。
 
 
▼またあの曲の話をするね。


 
 
これを尊厳についての歌だと思えたのは、不在のときの中で、孤独を引き受ける…つまりは祈りの時を過ごすことで、ただひたすらに「強く」なっていくということを感じられたからなのだった。そしてその理由として「あなたを好きということだけで あたしは変わった」である。この狂気。これがギリギリ、そしてそれゆえに異常なまでの輝きで成立するのは、他者に対する敬意とそれ以上に自己に対する尊厳の意識が確かにあるからだ。本当に感動する。変わりゆく君を変わらず見ていたいよの耽美的な敗北主義を越えて行け。それは複雑に入り組んだ「否定からのそれでも」そのものに対する「否定からのそれでも」である。
 
 
▼そうやって悲しい日を越えてきた先に何が待っているのか。1日を終え、部屋に戻る。その手に花はない。語るに値する物語が、そこから広がるのかどうかは分からない。今はまだ、漠然とした不安と確かな哀しみがそこにあるだけ。僕の人生を見ているのは、ぼくだけではなかった。瞬間にいる神様がじっとこちらを見ている。かつて、瞬間に(それは永遠であり、太陽と番った海である)たどり着く方法のひとつが君の導きだと妄言を吐いたことがあったが、それを妄言だと切って捨てるだけの確信が本当に僕にはあるのだろうか。神様の視線を感じた理由について、控え目に咲いていたあの花たちからの報告を待つこととする。
 

2017年1月10日の断片日記

▼ふとした(というにはあまりにも長く大きなものではあるのだが)きっかけで、古い友人と食事をして、ごくごく普通の会話をして、帰る。寒空の下、別れてひとりでとぼとぼと歩けば歩くほど、厭世的な気持ちになってくる。先の会話のせいだった。これはいけないと思って、コンビニに飛び込む。都市の生活。文明がもたらした永遠。これはもうどちらが病気か分からんね、とか思いながら、必要でもない水を1本買う。財布の中で150円を捜しながら、これは一体どの労働の対価としての150円なのだろうと考える。ぼんやりとしていたら、店員からの「ありがとうございました」。いつもはその前に「どうも」とか何とか言うはずなのに、ルーティンが崩れた。少しだけ動揺して「どういたしまして」なんて言いそうになる。奥歯で笑いをかみ殺す。こういうときに限ってマスクをしていないのだ。
 
 
▼会計を済ませ、(自分で出たとはいえ)外に放り出された僕にはあの気分がまだべったりと貼りついていた。帰りたくなかった。それでも行く場所もなかった。ため息を夜に投げ、肺が機能していることを可視化する。僕はまだ生きている、と自覚する。気づけば耳元で「愛のさざなみ」が流れていた。
 

 

この世に神様が本当にいるなら あなたに抱かれて 私は死にたい

  

あなたが私を きらいになったら 静かに静かに いなくなってほしい

  

どんなに遠くに 離れていたって あなたのふるさとは 私ひとりなの

  
このヴァースの部分の並びは本当に素晴らしいと思う。さざなみ、よい言葉だ。(カーネーションのカバーも秀逸よ)
 
 
▼部屋に戻る。20代のはじめに読みかけて投げ出したものにたまたま触れる。そこには今の僕が確かにいて、こうやって回収されて、受け取りなおされていくんだなと思う。捨てられないものばかり増えていくのも、困ったものだけれども。ね。