2017年1月19日の断片日記

▼季節の向こう側から、あの人に会える機会が舞い込んできた。僕はどうすべきか迷った。迷いの理由は明らかで、僕のこの現状を話せるのも、また理解してくれるのもこの人だけなのだが、この人にだけは話してはいけない理由があるからなのだった。甘えてはいけないよというのもその一つだけれども、もっと根本的な部分で僕は口をつぐむしかないのだった。それでも…その時はどうすべきかではなくどうしたいかを考えて、会うことにした。
 
 
▼慎重に言葉を選んで、その場にふさわしいふるまいをして、役割に徹したつもりだったのだけれども、端々から漏れ出してしまっているのには気づいていた。そしてそれらがそのたびに浄化されていくことにも。とてもかなしい感じがした。それをぬるくなった珈琲で流し込みながら、話し続け、聞き続けた。
 
 
▼かわいそう、とあの人が言った。前後の文脈を全て消し飛ばす勢いでその声と音が僕の耳に入ってきた。あなたは、かわいそうなひと。思わず笑ってしまった。どうしてこの人たちはこうやって、たった一言で―それもどこにでもあるような言葉で!―僕のことを殺すのだろうか。まいったなあなどと呆ける僕を見て、あの人も申し訳なさそうに笑っていた。僕は君のことを考えた。正確にはずっと考えていた。考えていたことに2時間ぶりに自覚的になっただけだった。
 
 
▼僕はかわいそうな人なのだろうか。それは被害者意識丸出しで、なんだか受け入れがたいことのように思えた。実際、僕が内側で育てていたあの黒い塊は他でもない僕のせいであそこまでぶくぶくと太ってしまったのだから。それでも、本当はかわいそうだと言って欲しかったのかもしれないなと思えるくらいには、素直にその言葉を聞いていた。言ってもらって「そんなことないんですよ」とかなんとか言うために、かわいそうって言ってもらいたがっているのだ、きっと。まったく醜悪な話だと思いながらも、その福音を受けた僕はするすると役割に戻っていった。壁に覆われた狭い道から開けた道へ出た感じがしていた。一本道であることには変わりないのだけれども。


▼帰り道、駅前の花屋にまた立ち寄って眺めるだけ眺めていこうと考えていたのだけれども、改札を抜ける少し前から耳元で「The Sound Of Someone You Love Who's Going Away And It Doesn't Matter」が流れていてとんでもねえなと思っているうちに住宅街に入り込んでしまっていた。部屋に着いて、食事をする気力もなかったのであの人がくれたチョコレートを2粒食べた。お酒の入った、たぶん高いやつだ。僕の舌、ばかだからこういうのよりコアラのマーチとかの方がいいのよねとかうそぶいていたらとびきり美味しくてびっくりした。だから2粒食べたのだった。花は元気に、それでも控え目に咲いているだろうかと思った。実は例のお菓子の5つ目を、ついに買ってしまっていた。
 
 
▼こうやって分析的にふるまったりして僕はバランスがとれていますよというポーズをとってみるけれど実際には分裂してぐちゃぐちゃでもっとどうしようもないんだ、というのは分かっているのだった。でもこうして書き出すことで異化してしまえば、何とかやっていける。これはそのドキュメントであり、営みなのだ。日記。こんなことになってしまってからは、明日の僕に向けて書いているという側面が強くなっている。昨日の僕が今日の僕に全く新しいパースペクティブや、正しい(らしい)解釈の術を渡してくれる。それらをつないでいくことで、僕は僕を保つ。これは途方もないことだがとても大切なことだ。僕らは、本当は毎日死んでいるのだから。

2017年1月18日の断片日記

▼もたもたしていた。祈りを通じて反復する日々の中で、「その不在」が「自己の不在」と溶け合い、僕はまるでアシッドまみれのような状況に陥り、とにかく目と耳を塞いで自閉し続けるしかなかった。のだった。でもせっかく思い立ったのだからと、10日以上も遅れてようやく花を買うに至った。
 
 
▼ラッピングを待つ間、店内の花を眺めながら花屋にはもっと頻繁に足を運ぶべきだよなとぼんやりと思った。美術館に行ったときに「もっと日常の中にこの時間をつくるべきだよな」と思うのと同じだ。とか考えていたら、その近似は前にも日記に書いていたようだった。花を見るのはここ数年でフェイバリットな行為としての順位を大きく上げたもののうちの1つだけれども、そうか、花屋という手もあるのだな…。
 
 
▼君のお気に入りのお菓子をなぜか買ってしまう行為は4つで止まっており、捨てるタイミングを逸したままだ。その8分後に花屋に寄ることになる折、いつものコンビニの前でそのことが逡巡したが、あるいは思うよりも早く、横断歩道へ足を踏み入れていた。そこにもきっと意味があるのだろう。それでも今は意味を考えるのをやめてしまおうと冬の風が、お気に入りの靴が奏でる足音が、コーヒーショップで談笑中の母親の傍らで眠る赤ん坊の寝息が、語りかけてきた。
 
 
▼ていねいに包装されたブーケをパートナーに歩く道すがら、頭の中では「Raspberry」が流れていた。「結局二人お気に入り同士だからまた会える」…僕らがこの8年、別れたりくっついたりを繰り返して永遠はないことのアナロジーを愉しむ共犯関係の中にいたときに、いつもそこにあった曲だったように思う。数日前の僕が言っていた「引き延ばされ、伸びたテープのようになったモラトリアムの中でいまだに夢を見続けているだけ」というのは、本当にその通りなのだった。踊ろうよ、それですべてうまくいく…とブーケに語りかけながら、足取りそのものには確かな配慮が宿っていた。ぼくが僕の人生を見ていることへの嫌悪を少しだけ抱きつつも、偶然とはいえ結果的には優しさを強制的にインストールすることになったこのやり方は、コントロールの範囲を確かに作るような営みであり、つまりはLife is coming back!の体現であった。
 
 
▼またあの曲の話をするね。


 
 
これを尊厳についての歌だと思えたのは、不在のときの中で、孤独を引き受ける…つまりは祈りの時を過ごすことで、ただひたすらに「強く」なっていくということを感じられたからなのだった。そしてその理由として「あなたを好きということだけで あたしは変わった」である。この狂気。これがギリギリ、そしてそれゆえに異常なまでの輝きで成立するのは、他者に対する敬意とそれ以上に自己に対する尊厳の意識が確かにあるからだ。本当に感動する。変わりゆく君を変わらず見ていたいよの耽美的な敗北主義を越えて行け。それは複雑に入り組んだ「否定からのそれでも」そのものに対する「否定からのそれでも」である。
 
 
▼そうやって悲しい日を越えてきた先に何が待っているのか。1日を終え、部屋に戻る。その手に花はない。語るに値する物語が、そこから広がるのかどうかは分からない。今はまだ、漠然とした不安と確かな哀しみがそこにあるだけ。僕の人生を見ているのは、ぼくだけではなかった。瞬間にいる神様がじっとこちらを見ている。かつて、瞬間に(それは永遠であり、太陽と番った海である)たどり着く方法のひとつが君の導きだと妄言を吐いたことがあったが、それを妄言だと切って捨てるだけの確信が本当に僕にはあるのだろうか。神様の視線を感じた理由について、控え目に咲いていたあの花たちからの報告を待つこととする。