2017年5月2日周辺の断片日記

▼新幹線の車窓から地方都市の夜の風景を見る。明かりがついているビルはもとより、寝静まって明かりの落ちた家々も、すべて営みだなと感じる。その途方もなさに気の遠くなるような思いと甘美な憂鬱さがやってきて、最終的には愛おしさを覚える。旅の何よりもこの時間を好んでいるかもしれない。窓の外を見つめていると時々自分と目が合う。自分のことは頭のてっぺんから脚の先まで嫌いでしかたがないけれど、夜の車窓にうっすらと浮かび上がるその像だけは見てもいいと思える。きっと見なければないのと同じということが感じられるのと、暗さが嫌な部分を消してくれてそれゆえその像が自分の像ではないからだと思う。


▼風に花が散る。人々が歓声のようなものをあげる。写真を取ろうとする人もいる。その光景を眺めながら、「すごく美しい、君に見せなくては」という言葉を思い出す。僕には理由が必要で、それをまた作らないといけないのだ。まずは自分のうちにそれを。歴史になったものは歴史として扱うべきだ。自分に言い聞かせていく。そのことに24時間を投じる。暦の妙とはいえ、こうしたエアポケットがあることが果たしていいのか悪いのか、よく分からなくなる。
 
 
▼1年ぶりの西。これで何年連続だろうか。でもこれまでの理由とはまた別の理由で僕はそこにいた。その理由はつくりだせた。それでもやることといえば相変わらず何をするでもなく市井の生活に紛れ込んでいくことなのだった。理由はどうあれ同じことを続けていくことは、物語の季節が再び動き出すときのためにも必要だと考えている。続編の可能性については僕は懐疑的だが、友人には確信めいたものがあるようでひとまずは彼の言に従うのだった。「私たち二人の関係が、私たち二人にしかわからない理由でずっと続いていきますように」という言葉がちらつく。実際僕らは僕らにしか分からないやり方で日々を重ねていたはずだった。
 
 
◇像の前逢瀬の刻の恋人ら繰り出したあとにドナルドダック
 
ホテルを出て朝の街に出ていくとさすがゴールデンウィークというもので、あちこちで待ち合わせが行われていた。とくにデートの待ち合わせの風景というのはよい。コーヒーショップの窓からそれを眺める。その場所では女の子ばかりが待っていておせっかいにも何やってんだよとか思ったりもしたのだが、そんなこと案外若い人は気にしないのかもしれない。それにしても一様に不安と期待の入り混じった顔が並んでいて、それが彼の到着とともに破顔する様というのはこちらまで幸福な気持ちになる。ある初々しい二人が出会ってひとことふたことを交わしたあとに出発していったのだが、そのあとにぬいぐるみ型のキーホルダーが転がっていた。僕がもしその隣にいたら、彼らに落ちましたよと声をかけるだろうかと思った。きっと声をかけずにいれば、あとでそれをなくしたことに気付いたときに、二人は予定外の会話をすることになるだろうし、それはそれで二人の世界の話になるだろう。声をかけてしまえばそこに拾ってくれた人が侵入することになってしまい収まりが悪い。二人が誰かに話しかけた時、それは二人にとってコンテンツとなり二人の世界に回収されていくが、予想外の侵入はそうなる保証がない。だから声はかけないだろう。持ち込んだ本も読まずに、そんなことを考えていた。
 
 
▼西に来るたびに思う。言葉のイントネーションが心地よいと。西、と一口に行っても当然様々あるわけで、前日とは別のこの県で過ごすのは初めてなんだけど、なんだかそういう大きなくくりでよい、実によいと思ってしまう。コンビニとコンビニの「間隔」で、その街のリズムのようなものをはかるのが好きだ。この街は空が広いなということも思った。好みの要素だらけだった。観光はもっと年齢を重ねてからでいいし、誰かと来た時にすればいいと考えている。こういう楽しみ方こそ、できるうちにしておかなければいけない。夜は別ルートで来ていた友人と合流し酒を飲んで寝ぼけた10代のようなことを20代の言い方で話していた。素晴らしい夜だった。次の日の朝は頭痛と陽光で目が覚め、またひとりでてくてくとでかけていった。あの娘といくつかのやり取りをして、さらに次の日の夜には君が僕の2か月前を今になってかすめた形跡が運ばれてきたのだった。
 
 
◇つながりを求めて朝山陽の君はアイドルになりたがっている
 

2017年4月30日の断片日記


wowee-zowee.hatenablog.com
 
この行間と続きを少しだけ書こうと思う。あの娘の「せかい」が転がり込んできたあの夜には実はいちゃいけない人もそこにいて、おそらくそのせいで事態はほんの少し複雑になってしまったのだろうということを、約束があっさりと霧散したあとすぐに思う。あれもそうだ。これもそうだ。思い当たる節がたくさんある。誰かに夢を見せられたなら悪くないのかもしれないけれど、僕は僕でまた1つ悪い夢に顔を突っ込んでいるような感覚になる。何年か前、サンボマスターの山口氏が「僕はその人にね、ありがとうって言いたかったの。だけどありがとうって言う前に、俺は何でいなくなっちまったんだこの野郎ってそんな言葉が出てきちゃったんだ」ということを言っていた。そんなもんだよねと思う。同時にそのことに対する後悔というもの、おそらくはそういうものを何に昇華するかということを僕らは問われているのだろうとも思う。他でもない自分自身に。
 
 
▼それでも明け方の街で駅に向かう大人たちの顔とすれ違いながら今への憧憬を新たにしたわけは、何もたくさんの生徒たちがしてくれた(今のネットワークというのはすごいのだな!ということも改めて感じた次第)ことをふり切らなければ思い出にからめとられて死んでしまうと感じたことにだけあるのではなかった。つまりその終わりと何かの始まりの折に、僕の傍らにはあの子どもたちも、君も、あの娘もいないのだ。だからこそ「今」に立てるのではないか。月のはじめに「お忘れ物はありませんか」とあの運転手は言っていたけれど、ほんとうは忘れ物だらけなんだろうと思う。でもそうやって何も持っていない状況にあえて立ったからこそこの年月があったわけだし、そう思えば今に生きることを繰り返せればきっと(少なくとも)僕の役割としての前途は明るいだろう。もし暗ければ自力で照らすか明るいところへ向かうまで、などと思っている。産みの苦しみはあるにしても。
 
 


この2曲の間にあるもの。そういうことだと思う。慎重かつ大胆な気持ちで初めから何も持たなければ、穴が開くこともない。結局は自分の持ち物は、自分に持てる範囲にしかないのだから。