2017年4月6日の断片日記

▼開いた扉の隙をついて転がり込んできたあの娘とは、そういえば1年くらい前にはもう出会っていたはずなのに人生何が起こるか分からないものだなと、おろしたてのステンカラーコートを身体になじませながら呆けた顔で考えていた。信号待ちの交差点で強い風がそれを吹き飛ばす。問題は「わたしのせかい」の拡張具合なのではないだろうか…。つまり、「ある」というのは「あればある」のだが、同時に「見ればそうなる」でもあり…。でも拡張について言うならば、今回のそれはひらけてきたというのともまた異なった感覚がある。「わたしのせかい」の輪郭が弛緩してだらしなくたるんだ結果拡張してしまったというのが近い気がする。それについては加齢のせいもあるが、今回は友人が間でいろいろ画策したからというところが大きく、考えてみればいったい何が目的なんだと若干の困惑もある。でもあの娘が振りまいている何かに漂う肯定の香りにほんの少しだけ尊さを感じてしまうので、どうやら気分が悪いわけでもないのだ。それでもどうしても君のことが頭をよぎるし、何ならその持ち物をまだ処分できずにいる。もちろん、今回のことで僕が生かされたその日々が損なわれるわけではないということは頭では分かっているのだけれども、どうにもロマンチストが過ぎて仕様がない。自分を振った女性が10年ぶりにやってきて、そのまま結婚した友人の話を思い出す。そこに、その日々に、「殉ずるのもやむなし」というような信仰心はあったのだろうか。彼が故郷に戻る前に聞いておけばよかった。
 
 
▼今回の件について僕はまた別のところにも興味を持っていて、それは友人の言動にあれよあれよと運ばれていった2人のことだった。展開する(させられる)たびに何かひっかかるなと思って、コミュニケーションに関する書籍にあたってみると納得がいくことがたくさん書いてあった。友人がこの技術を「使った」のか(だとしたらますます意味不明であるのでたぶん天然だろう)どうかは定かではないが、このような心理に作用するものについては自衛のためにも知っておいて損はないのではないかと思った。
 
 
▼別の話。僕がいよいよ自分で環境を変えようと準備を始めた矢先、別な角度からも横やりが入ってああうまくいかないなと思っている次第。それでも、どうせ起きる変化なら一気にたたみかけた方がいいだろう。だから、今までとは違う歩き方をしようと考えている。生活のためではなく、人生のために生きたい。年末からいろんなことが起こり過ぎている。そういう時期なんだと思って、いろいろやってみようと思う。青春はもう、終わったのだから。
 
 
▼そんなことを考えながら片づけをしていると通知。まるで日々が続いているかのような言葉がいくつかと、君の写真だった。髪の色、その方が好きだなと思った。
 

2017年3月31日の断片日記

▼ある対立が存在していて、僕は本来自分が立たなければいけない立場ではない方に肩入れしている。それでもその両方のどちらも実は間違っていなかったり、あるいはその両方ともが実は相手のことを考えた末の決断で…というケースもたくさんあって(そういうものの方が多いだろう)、そうなると僕個人の思いなんかどうでもよくなってしまって、とにかく口をつぐむしかないという状況に追い込まれてしまう。そうして僕が黙っているのをいいことに好き勝手言ってくるやつというのが両方の陣営にいて、なめんじゃねえよみたいなことを思ってしまう。正しさを問題にするからそういうことになるのだ。正しさというのは極めて個人的な持ち物である美学の一種だと考えている。だからある意味でそれはファンタジーだ。それなのに、あれがおかしいとかこれがおかしくないとか。そんなもん全部おかしいし、全部合ってんだよ。それぞれの「わたしのせかい」から眺めれば。だから正しさではないものを本当は問題にしなければいけないのにね、と悲しい気持ちになってしまう。
 
 
▼正しさに限らず人にはいろんな側面があるのが当たり前で、その場面場面で最適だと思われるものを選択している。僕らはその結果表出されたものを外側から見てまた様々に判断していくわけだ。自分でしている選択でもこれでいいという確証なんてないことだって多いし、「それを選択せざるを得ない」という非選択な選択だってあるわけだ。そうなると僕が今見ているそれをもってして、その人の人格に結び付けて判断を下すなんて暴力的な行為、僕には恐ろしくてできない。第一、統一的な人格というものを自分でも把握・掌握できていないのに、そういうものが存在するかのようにふるまうことにだって僕は抵抗があるのに。
 
 
▼WZの方に3月のまとめのようなことを書いた。あれは1カ月かけて少しずつ書き足していったものだ。だからどこかにいびつさが出ているはずでそれが僕は面白いなと思う。その月の最初の方に起きたことと最後の方に起きたことについて、表現としては別の言葉を用いるのが適切だったとしてもすべてが地続きで実は同じことなのだということがある。開いた扉の隙をついて転がり込んできたその「せかい」が僕の膝の上で静かに寝息を立てている間、冷え切ったその手を握りながら漏れ出していた感情にそっと触れてみた。僕は君のことを思い出していただろうか。それでもこれは、あの日々と本質的には同じことのはずなのだった。分かってはいるけれど、どうするかはまだ決めかねている。のだった。