2013年2月21日の日記

永遠はないということ。瞬間に到達しなければならないと考えること。そのことが、いつの間にか焦燥感と結びついてしまっていた。そうすると、選択の際にこれまでとの微妙な違いが投入され続けていることになり、その差異が意識レベルまで上がってきたということが、ここ最近のコントロール不能感の出所の一つとして僕が用意した結論である。

 

27歳という年齢をどう捉えるかは人それぞれだとは思うが、命を落とすものや所帯を持つようになるものが周囲にぽつぽつと増え始める中、冒頭のような使命感と美意識を携えてしまった人間が、その年齢という変えがたき事実を前に狼狽しない方が場合によっては異常なことのような気もしないではない。

 

他者とかかわっていく上で重要な認識の一つに時間についての捉え方、捕まえ方があるだろう。我々が共有できる(と信じている)のは場そのものであって、各々が時間に対して抱いている思いや、あるいは見ている景色はそれぞれ別のものである。ゆえに、たとえば流れや速度のような簡便なものを一つ取り上げたとしても(簡便であるからかもしれない)その強大なうねりのまえに、いったい目の前の人間と何を成せるのかと途方に暮れてしまう。だがその途方に暮れるという前提に立った上で、それでもなんとかせねばと立ち向かうところに他者と交わることの何らかの意味性が生まれるのであって、その認識の有無は本当に、大きい。あまりにも、大きすぎる。少なくとも僕にとっては大問題だ。

 

つまりは、焦燥感にさいなまれた青年と繰り返しに苛立つ彼女との間の壁を僕らはいかにして乗り越えていくことができるのだろうということである。「僕はさえないピエロで、あなたはFearless Girl」・・・明日も明後日もそうだろう。いつだってみんな先に行ってしまう。