2017年4月12日の断片日記

▼(当たり前と言えばそうなのだが)用があって渋谷に半年ぶりに赴いて、その情報量と喧騒になんだかひどく疲れてしまった。色んな人が話しかけてきた。全部無視した。20℃くらいまで気温は上がっていたようだった。いろんな街にいろんな思い出があるけれど、そのどれもがおそらく存在していたであろう1人の人間にたどり着くものばかりで困った気持ちになる。用を済ませる。お金を多めに使ってしまった。そのまま2つやり過ごした後の電車に揺られて休日出勤の職場へ向かう。本を読むのをやめ、30分くらいずっと車窓からの景色を眺めていた。多摩川のそばで女の子が1人で煙草をくゆらせながら座っているのが見えた。とても良いと感じてくぎづけになってしまった。発車する列車にそれを無理やりはがされてしまう。川では魚が跳ね、白い鳥がそれを狙っているようだった。
 
 
▼数日前にWZに今月分の映画の感想を書いた。
wowee-zowee.hatenablog.com
ベストディスクなどもそうなのだけれども、僕は映画の見方が分からないし、音楽の聞き方も分からないので、結局自分の話をするしかなくこういう書き方になってしまう。この辺りをどういうふうに学んだらよいのかよく分からないまま(そして若干のコンプレックスをそこに抱きながら)ここまで来てしまった。それでも以前から繰り返している通り、「何かを語らせる」作品というのはそれだけで素晴らしいと思うのでこれでよいかという開き直りもある。作品は究極的には受け手のものだからそれが「あなた」をどう動かし、踊らせ、考えさせたのかを読みたいそしてそれを書きたいという欲がある。どんな集団がどういう意図でそれを制作したのかということももちろん面白いし、知ることに意味も意義もあるとは思うのだけれども、どこまでいっても自分は市井の側の人間なのだなと思ってしまう。だからこそ、批評家が提示してくれるその作品の文脈や背景、あるいは見方そのものなどに心から感謝をしている。批評とは竟に己の夢を懐疑的に語る事ではないのか、という言葉についてはもう何度も書いているけれども、そういう意味では批評もまた芸術であるとも感じる。市井の側にいることを意識してしまう、つまりは批評の場に僕は届かないのだという感覚はそういうところに源泉がありそうだ。僕はきっと芸術という行為そのものに対してすら畏怖の気持ちがあるのではないかと最近は感じている。
 
 
▼移動中、野音の先行当たるといいなあと思いながら『DANCE TO YOU』を聴いていた。始めはそういや「桜」てはっきり歌ったのはこれが初めてなのかな(『東京』に「桜」という歌詞が出てこないという話が本当に大好きだ)とか考えていたのだけれども、「きみがいないことは きみがいることだなぁ 春の恋 舞い踊れ あの娘を連れてこい」が今日はというか今ならこう聞こえるんだなという自分の話へと結局はたどり着いてしまった。君はいないからいるし、春は確かにあの娘を連れてきた。『東京物語』を観てから受け入れるということの難しさをずっと考えていて、そのせいもあるのだろうなと思った。

Sunny Day Service - 桜 super love【Official Music Video】

 
サニーデイつながりでいえば、永井博氏とDELFONICSのコラボステーショナリーが出ていたことを今更知って今度買いに行こうと思っている。原画展にも足を運べるといいなと考えている。欲しいものや行きたい場所があることは良いことだ。
 
 
▼紙のおねーさんが好きなものたちを始めていて、いーないーなと思っていた。僕も似たようなことをしようと思う。日々に目次をつけてみるというコンセプトで。
soulkitchen.hatenablog.com
etlivsfragment.hatenablog.com