2017年5月7日の断片日記

▼新しい生活費稼ぎの場が思っていた以上にハードモードで白目剥いてる。今までの当たり前が当たり前ではないのだろうなとは思っていたのだが、そんな生易しいものではなくて、ここに横たわっている当たり前が受け入れられないものばかりでホントぶっこわしてやろうかなみたいな気持ちになっている。ひとまず自分の仕事がやりやすいように動いていくしかないのだねとか思いながらも、それでも今までの当たり前だってその時の当たり前を受け入れたり壊したりしながらしてつくったものだしなあ…と考えることでなだめすかしている。でも、定期券をつくりなおす元気すらなくて、めそめそとチャージを繰り返している。チャージすきだからいいんだけど。ICカードのヤツがぐぐぐっと回復している感があって。自分の稼いだお金を使って人を喜ばせている錯覚すら覚えることがある。ほんとに?
 
 
▼つらいとき、そばで支えてくれる人がいるとうんぬんかんぬんって話があるけれど、別に支えてくれるなんて積極的な何かがなくてもいいから、この存在のためにがんばってるんだもんねと納得できる人や物や概念がちゃんとそこにいるだけで、なんかいいよねとは思う。信仰。沈黙を続けたままの神に対して解釈をかえてその心を維持し続けたかの地の人々のことを考える。ひるがえって自分。未練とかそういうんじゃなくって、あの日からずっと胸にあったのは信仰心で…そう言い続けてたし、今でもそう思ってもいて…何にしても拠り所というのは本当に大事だと思う。僕が信じる限り君は消えない。だってそもそも初めから「ない」のだから。
 
 
▼WZ!の方にアップする予定の今月の映画の感想をちまちま書いている。前回『桐島~』のことを少し書いたけれども、あれ以来(その前から「モデル」として好きだったのだけれど)橋本愛さんのことがだいぶ好きなので、彼女の出演作をあれこれ見ようとしている。で、『ワンダフルワールドエンド』でえらく感動してしまい熱量のあるよく分からない文章を書いてしまった。現在それの手直しをしているところ。せめて自分にだけでも意味のわかるものになってほしい…ので。それでその流れで橋本さんのインタビューをふんふんと読んでいたら素晴らしいものを見つけてしまった。同じようなことを考えている人がやっぱりいるんだ…。熱の高さの余波を置いておきます。

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――橋本さん自身は、人に影響を受けるタイプですか?
 
橋本:うーん、そうですね。影響というより、私は「自分の好きな人全員になりたい」っていう願望があるんですよ。自分という個人はいらないから、他人になりたい、みたいな。そういう願望が自分にあるっていうことは、最近気づいたんですけど。(中略)「この人になりたい」っていう人がひとり出てきたら、その人になるためのプロセスを自分の中で歩んでいくんです。その途中で別の好きな人を見つけたら、そっちに方向を変える、みたいな。そんなことやってると、ほんとに私という個人が死んでいくんですよ。

 
すごい分かる。で、これってどちらかというと快寄りの感覚ではあるんだけどそこに不快な思いが一切ないかというと決してそうではなくて、やっぱり影のようなものがどこかには入り込んでいて。ここから少し変節したものが、僕のいう『役割』に近いものだと思う。

私は、好きなものに触れるうえで自意識はできるだけ排したいと考えているんです。

 
いつかもいったけど僕が瞬間を求めるのはそういうことも理由にある。瞬間にとどまって美そのものをそのものとして受け取ってとどまり、1秒でも長くその場で美そのものになりたい。これと同じような話だろう、なんて。続いて、大森靖子嬢の音楽について。

――真面目な話をすると、橋本愛を惹きつける作品って、どういうものなんですか?
  
橋本:うーん、難しいですね。……なんていえばいいのかな。まあ、「豊かなもの」が好きですね。(中略)大森さんの音楽の豊かさは、大森さん自身が社会と戦っているからこそ、出せるものなんだと思うんです。(中略)なんか、大森さんのそういうところにも、安心するんですよね。聞いている自分が「私でいいじゃん!」みたいな勢いで突き進みそうになっているところを、ブレーキかけてくれるというか。

 
彼女が鳴らしている「肯定」についてはアップできたもの書きあげられなかったもの含めて何度も書いている。で、そのうちの書きあげられなかった残骸から少し拾ってくる。

かつて、聞き手の内側に入り込んで「わたしのこと」を歌ってくれていた存在というのは、ともすれば強い共依存の関係を作り出し、それ故に沈殿したり空中分解したりしたものがほとんどであった。ここにあるのはそうしたものとは一線を画した自律を促す肯定である。10代の僕がレジュメしていた『否定からのそれでも』は、あれから10年以上の年月を経てこんなにも素晴らしい表現に引き合わせてくれた。「大嫌いこの顔での人生ゲーム ハンデゆるすぎ余裕の大勝利 分からないような男ならいらない」余りにも素晴らしいラインだと思う。この言葉の前に、僕は何度も何度も自分の中の頷きを総動員してしまう。まるでその言葉が、無垢な肯定と、社会も含めた自分という存在に対する否定からのそれでもの間で手招きしているようだ。

 
だから、これも橋本さんの言うことはよく分かる気がする。昔、大森嬢は「無料だからって外に出られる力があるんだったらいろいろもっとできると思うよ!」なんてことを客に言っていた。そのままでいいんだよ、ではない肯定の仕方はなんて最高なんだろう。 

橋本:そうですね。早くハタチになりたいとは常日頃から思ってるんですけど、どうせあと1年たったらハタチになるんだし、今のうちに目一杯、抑圧を受けておこうと思ってます。
 
――抑圧?
 
橋本:10代のうちは、まだ抑圧が多いじゃないですか。単純に、お酒やたばこに触れちゃいけなかったり。そんな風にいろいろ抑圧されている中で、どうせなら別の形で自分を満足させていきたいなって感じですね。
 
――成人に対してうらやましいなって思うことは、何ですか?
 
橋本:たとえば、居酒屋さんにも行けたりするところ。そういう場所で、新たな出会いもあるかもしれないし。でも、今はそういうところに行けない制限のある状態だからこそ、その状態をちゃんと楽しもうと思ってますね。

 
これはいわば「制約の中の美」の話だなと。制約があるからこそ生まれるものがある。大人と仕事をしているからなのだろうか彼女の感受性や教養のようなものがそうさせるのか、10代でその立ち位置から自分を眺められるのはすごいなと思う。現在は20歳をこえてるのかな。確かこれよりも前のインタビューでは早く20歳にならせろ、自分にも責任を取らせろ!みたいなことを仰っていたような記憶があるのだけれども、それはそれで実は同じようなことを言っているはずで、彼女に対する畏敬の念のようなものがわいてきてしまう。
 
 
▼というわけで、こうやって人は人にシンパシーを勝手に覚えて好きになるんだなということの好例でした。『ワンダフルワールドエンド』、本当に良かったです。実存でした。

もうこの予告編だけでまた泣いてしまう。ラストのあのシーンでお互いの「名前」を呼び合うというのが僕にとっては本当に本当に大きな意味を持っている。そしてそこに重なる大森嬢の歌である。

生きている生きてゆく生きてきた 愛の隣で 私達はいつか死ぬのよ 夜を越えても

 
終わりがあるって美しいよね。そしてそれは、「愛」の隣で!!!